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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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Alas, poor Yorick!  

スタジオでやるのと、おうちでやるのと、練習の質が全然違うのは、100%マインドのなせる技。

「なんでだろー」とか「ダメダメじゃんー」と自分のメロドラマ に呑まれるんじゃなくて、「おおー、こうくるかー」くらいの客観性をもって、その落差を愉しむのがよろしいかと、常々感じてはいるのだが。

で、スタジオ練。
・・・やーだ、もー、なにこれー?

確かにここ1年ほど、周囲よりご丁寧な指摘が入るほど、「いわゆるロクな練習」なぞ、していない。それは環境の変化と、自分の無意識な意思による当然の帰結なので、「ま、それはそれ」、っていう、それだけの話。

馬車馬のごとく、日々の鍛錬をひたすら繰り返すアシュタンギの原動力は、「止まれば後退」という恐怖とのおっかけっこみたいなもので、「いや、私はアサナに執着などしていない」と、白々しいヨガ的笑顔を振りまいたところで、「いや、そのアナタのアシュタンガ筋は、執着の度合いを充分示しているよ」と突っ込まれたら、ひとたまりもない。

毎日本気汁出してエッサホッサ練習してたときと違って、ひとりっきりで自分の心身の波に左右されまくった練習していると、高めたテンションに便乗してはっちゃけるアドレナリン的快楽は得られない。かわりに、地味~に内省的に、背中の荷物をいっこいっこ降ろしては検品、という作業に没頭するようになり、誤魔化してスルーではなく、立ち止まって判断を迫られることが多い。

なにが言いたいのかというと。

久々にスタジオで、キチンと指導をする先生の元で練習をして、自分の身体が「まるで他人の身体」のように、別の生き物みたいに躍動し始めて、びっくらこいたのだ。

えーと、あの、バリバリにこわばっていた身体はどこへいっちゃったんでしょうか?身体が重くてビンヤサどころじゃなかったはずではなかったのか?とうていムリムリとやる気すら出さなかったポーズが、一気に様変わりするのはなぜ?肩への負担をなくすため、躍起になってた試行錯誤が不要になるほど、なぜいきなり軽々とバンダワークできるの?いつも何度も繰り返しチャレンジしないと留まれないバランスものが、ピタリと「そこ」に集中できるのはなぜ?神サマ教えてプリーズ?

要は気の持ちようしだいで、いかんともなる。そのくらい、私たちの身体は無限の可能性とパワーを秘めていて、それを押しとどめているのは、このオツムの中にある脳内機能のなせるわざ。

うわー、アホくさ。なんか、いろんなものが。えっと、いろんな意味で。




2005/04/03 アル中時代の走り書き
脳には確かに記憶の引き出しが幾千幾万とあるけれど、その大抵が年中out of orderなものだから。 仕方なしに私達は使い古したガタピシの思い出玉手箱を取り出しては反芻し郷愁と嫌悪の快楽に身を委ねる。 長期記憶となる前に上書きされ忘却の彼方へ去り行く、わたしの、すべての、あれ、それ、これ。 ああ、しかし絶え間ない刷り込みによるクソ記憶の偉大さよ! 見よ、かの原色宣伝広告やら倫理やら。 圧制されたありとあらゆる残余を抱えて私達はなにをどうしてこうしたらよいものか。うーむ。
  ダラけた日常に渇をいれたい欲望は、得てして我々を極限へと駆り立てる、が、その脳内ケミカルシステムをあえて意識する余裕と理知は残念ながら皆無なのが唯一の救いか。 違法/合法ドラッグ・行楽絶叫マシーン・音楽・ダンス・ランナーズハイ・依存症・恐怖・摂食障害による嘔吐・自傷行為・ぐるぐる回り・セックス・殺人・戦争。ドーパミン・ユーフォリア・幻覚幻聴・過剰な依存・シャブ・強迫観念・パーキンソン病・セロトニン・まったりリラックス・プロザック・抗鬱・作用阻害LSD・てんかん・オピオイド・アルカロイド・アンドロイド・恐怖極限ストレス緩和自家治療・コルチゾン・アドレナリン・恐怖極限状態・戦闘意欲・ジェイコブスラダー 覚醒するために?逃走するために?
  たかだか直径20センチ1キロ強の脳味噌という器官、何億ものニューロンとシナプスが四六時中稼動しっぱなし。 しゃれこうべを掌上にAlas, poor Yorick!の心境これいかに。 半径5mのまったり小津系ワールドや標高10センチの差異などの単なるコトバ遊びもいいけど、直径20センチ1キロ強の器官が持ちえる世界の広がりとやらは、無意識株式会社の日雇い小人達による曼荼羅シンフォニー、拍手喝采、ユングやらチベット密教やらで「夢の中でボクはキミになる」
  退屈なら思考も思想も宗教もオーゲーオーゲーと太っ腹な神の気まぐれが運のつき。 形而上の各種方程式遊びとはつまり前世紀的哲学を指すが、裸の王様の化けの皮はがしにかけた年月を思うと人類の進化は果てしなくノロマだ。 たかだか直径20センチ1キロ強の脳味噌ですからねぇ。 主体(ワタシ)の実体なぞマヤカシですよ、と。 んまー、ご丁寧にも。そんなコトより近所のタクちゃん(11歳)の現実の方がずーっと切実なワケで。




ああ、脳みそに蛆がわいてたこのころとなにひとつかわってない。
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コメント

No title

「いい質問であれば、その答えは質問の中に既に用意されている。」と某文化人類学者がもうしておりました。

miwanandaさんのいう「いわゆるロクな練習」とは何ですか?

URL | ZEN #79D/WHSg
2011/08/26 17:24 | edit

No title

引用どおり、すっかり答えが丸わかりのご質問ありがとうございます(^-^)/
このエントリー自体が、そんなもんねーよ、っていう婉曲な表現だったんですが、それをあえて回答するのは控えさせていただきますね。かしこ。

URL | miwananda #79D/WHSg
2011/08/26 17:30 | edit

No title

ボクにとってアシュタンガヨガというものは、扉を開いてくれる”鍵”のようなものでした。
アーサナプラクティスのもたらす恩恵やご利益が目的ではなく、そこに価値は無いのは言うまでもありません。

やる意味や価値については
”無意味であり、無価値である”
そのことが念頭にあればそれでいいと。

”意味があると思うこと、価値を見いだすこと”
この考えを追い出すことがまずスタートなのかと、
今はそう思っています。

URL | ZEN #79D/WHSg
2011/08/26 17:56 | edit

No title

自分の言葉で自分の意見を語ることから逃げちゃいかんです。引用だけポーンと提示して、自分は知らんふり、ってのは無責任。キレイな口当たりのいい文章にお任せするのも違うかなと。ブログという公の場で何かを表明するのなら、最後まで誠実に自分とパブリックに向き合わうことが大切だと思います。
で、すべてのものは無意味である、という考えが、すべてを価値や意味を包容した上で、それを前提として、一切合切の価値や意味は実体を持たない無へと終息するという意味では同感です。
ただそれが現状回避の鬱屈したニヒリズムからなる単なる否定であれば、そこから生まれる未知の可能性の芽を摘み取ってしまうようなもので、むりくり「こうだ!」という概念に押し込む、不自然なエゴの現れのように感じます。考えを押し出す必要はないんじゃなですか?そこに信じる価値を見いだすのなら、その瞬間だく有効な幻影のようなものであっても、それを否定する意義は自己防衛にしかすぎない気がします。

URL | miwananda #79D/WHSg
2011/08/26 18:16 | edit

No title

ひとつめのコメントは質問でしたが。

ニヒリズムに逃げ込むつもりは毛頭ありませんよ。
ある立場に立って言いたいことがあるのだけど、これは逃げではないです。
本当に言いたいことを言えなくしているのは、ほかの誰でもなく私自身であります。
ブログもSNSも難しいなーと再認識しました。
コメント欄を汚して申し訳ありません。

URL | ZEN #79D/WHSg
2011/08/26 18:31 | edit

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