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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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"そんなんで、よく教えられますねー"  

少し鬱入ってきた。他人のちょっとした一言がいつまでも心にひっかかってる。自分の一番弱い部分が露になると、躍起になってそれを打ち消したいがゆえに、その引金を引いた人を非難してしまう、いつものパターンだ。

自分の練習もロクにできない人に教える資格はない。そういう規定の雛型で自他をジャッジし続けてきた自分が、同じ定義から導かれる批判の対象になってる。冷静に見れば、こんなに滑稽なことってないというか、なんか、全てを一旦解体する作業に入ってるみたいだ。

昔の先生が、どんなときも「まずは自分の練習が最優先」というポリシーだった。その「練習」というのは、単なるアサナのプラクティスを指していて、ヨガという叡智を体現する総体的な修行そのものでは勿論なかった。

私個人は、自身の今現在のダルマとしてするべき任務を全うすること自体が、生きる上でのヨガ修行だと思っているから、それを差し置いてでも、まずは自分の修行優先、という一種の「世捨て人」的ファナティックさは正直苦手だ。

アシュタンガ・ヨガ・ビンヤサ・システムの素晴らしいところは、人としての、一家の主としての、母としての役割をまず主におき、その邪魔にならないように早朝の練習をする、というシンプルさだと思っている。グルジはバラモンとしての祭事があれば普通にシャラを閉めていたし、"Practice, practice, practice"というフレーズは、決して「週6日の早朝練習」をまっとうするために、会社を辞めたり、母親としての責任を放棄したり、離婚したりすることを推奨していたわけではない。

「なにはさておき自分の練習」というハードコアな姿勢というのは、言い換えれば、単なる我欲と執着に取り憑かれた餓鬼の心の現われなだけで、それってヨガ的指針から180度真逆を向いてやしまいか?

「アサナの練習よりも大切なこともある」と、手放すことで受容と知足を体現する経験は、誰にでもやってくるんだし。つか、そこを通り過ぎなかったら「アサナ重視のヨガ修行」の意味がなくなっちゃう。

今わたしは、アサナの練習7年目にして、これまでのハードコアっぷりで培ってきた(と思っていた幻影)全てを、いったんチャラにして、ぜんぶバラバラにして、解体して、ゼロにしている真っ最中。ここから、新たな何かが生起するのか否か、そんなことはわかんない。

他人の言葉に簡単に傷ついて、ひとしきり腐ったあげく、そんなことを思いながら、指導後にお家で練習。心がアチコチに彷徨うもんだから、ポーズもアチコチに散漫になっていく。エカパダで腰の痛みが酷くなって一旦小休止。ヨロヨロとピンチャとカランダだけやってみて、うーん、今日はここまで。バックベンドとハンドスタンド、壁を使ってのチクタク準備・・・あらやだ、いつもの「しょーもない練習」じゃん!でも、これがいまの私のやってる練習なんだ。
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