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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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ミステリアス ウルドゥヴァ ククターサナ  

私は普通に筋力や腕力でヨガのポーズを征服しようとする、典型的な「粗雑な次元=グロスボディ」の練習生です。

目に見える物質的な筋肉を意思の力で意図的にコントロールすることで、しかるべき目標(=ポーズのカタチ)へ向かっています。

物質的に不可能と思われる部位があれば、その改善や向上を目指し、意識的にフォーカスし働きかけることも厭いません。

もちろん、これらは執着です。だけど、そこには否定ではなく愛がありますが。

自分の肉体にしっかりと棲んでいないような、ヘンテコな違和感を抱えて生きてきた自分が、このままならない肉体を使って「アサナ」と呼ばれる練習をするために、まずは非常に粗雑で物質的な次元で、限りなく意図的に、一種の執着をもって、アーサナ・ジャンキーとなる覚悟は、アシュタンガヨガDay1から、そこにありました。

ジョンスコットやメイちゃんのように、しなやかに、軽々と、繊細な次元で、肉体を操ることを、(それをステキだと思いこそはすれ)この自分が行おうとは、思いませんでした。なぜならば、それ以前に、私は、この肉体を手懐ける必要があったからです。

「ヨガはアサナだけではない」という言葉を自分に言い聞かせることで、弱い心を慰めることはできても、単なる言い訳としての免罪符にはしたくなかったので、あえて「まずはアサナありき」と自身の立ち位置はブレないように心掛けています。

10年経った現在も、ガッツリと筋力と意思の力を使って、ガサツに荒々しくゼイハア言って、「なんでこんなコトやってるんだー?」というようなポーズや動きを、毎日ドッタンバッタンやっています。心の静謐とかいうヨガのイメージぶち壊しもいいところです。

正直、超カッコ悪いです。身体のカタチだけでなく、そこに生起する自分のマインドの揺れ具合も、半端なくダサダサです。ありとあらゆるネガティブな感情や反応が入り乱れての大騒ぎです。

でも、そのカッコ悪さに、言い訳をつける必要はないし、そこから逃げ出す筋合いもないってことだけは確かだから、いまでもこうやって、同じ事を続けてられるのかもしれません。

ただひとつ言えるのは、こうやってガサツな肉体の練習を続けていると、繰り返される動きやポーズのいくつかは、いつのまにか空気のように呼吸の一部となって、意図や筋力を必要としなくなってくるということ。

それは、意識的に「コントロールしようとする意図を手放さなきゃ」とか、「力技でドリャーッ!ではなく、呼吸のパワーで自然にやらなきゃ」っていうエゴの指令とは、別の次元で、自然発生的に、あるとき、とつぜんに、生起するみたいです。

練習全体が劇的に変化するというよりは、たった1回のジャンプバックとか、ドロップバックで描く軌道のほんの一部とか、何気ない瞬間瞬間が、いつのまにか蓄積されるような感じで。

なんてことが最近、「永遠の謎」ウルドゥヴァククターサナBの微かなシフト感の中に現れてきて、なんか面白いなぁ、と、そのマジカルぶりに驚いている真っ最中だったりするのであります。

変に気取って、意識的に「意図しない自然な」練習をとりつくろうより、ガムシャラの果てに、おおーっ!なんていうミラクルに出会える方が、なんかステキな気がします。

ということで、普通のオバチャン肉体を持つ身にとっては、「永遠の謎」であるウルドゥヴァククターサナB




とりあえず力技でよじ登るという驚きのショートカットバージョン。私個人的には、コチラの方向へは向かうつもりは毛頭ない。


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カラダとココロを超えて  

日々の練習の中で
私という存在の“何か”が少しずつ変容してゆく経験は

甘美な歓喜や至福というよりは
恐れや不安や戸惑いといった「居心地の悪さ」と共に
いまでも常に鮮明に展開しているプロセスなのだけど

その質の変化は確かにあるなぁ、
と、最近なんとなく、そんなことを感じてる。


アシュタンガヨガのプラクティスは
なにはともあれ、まずはカラダから始まる。


私たちが“自分だ”と思っている存在と
”この肉体“という窮屈な物体らしきモノとの繋がりが

親密と疎遠の間で揺れ動き
ダンスに興じるような不思議な経験。


何年続けていようと
そこにはいつも新しいポーズや動きが待ち構えていて

そこに肉体を投じては
新たな冒険が何度も、繰り広げられている。


アシュタンガヨガをやっていると
エゴは身体を上手に手なずけられないんだなぁ
と気が付くのに、あんまり時間はかからない。


こうしたい、ああしたい、こうあるべき、ああでなきゃ・・・
と私達をコントロール・フリークに駆り立てる源と折り合いをつけないかぎり

肉体は簡単に緊張しては
固く縮こまって重たいカタマリになっていっちゃう。


その身体が、浮かび、上がり、流れ、フローするには、
どんな知識や強い意志で完全武装したエゴよりも

呼吸の制御と、視点を定めたマインドの集中という、
最もシンプルで汎用性の高いユビキタスなツールが、

やっぱ一番大事らしい。


カラダとの関係が親密になってくると
今度はココロと向き合いアーデモナイ・コーデモナイが始まる。


古くからの思考パターンや習慣
思い込みや刷り込み
これが“自分だ”と思っていたエゴやマインドの
整理整頓大掃除三昧。


感情と思考とハートがチグハグにならないように、
内面の混沌の糸を解いていくと

カラダも含めた自分という存在が
次第に統合されていく不思議な変化を経験する。



毎日の練習も
おなじ身体を使って
呼吸と視点を整えているだけなのに

ココロの状態如何で
まったく異なった世界が広がるし
そのどれをも否定せずにオッケー出してる自分にビックリしたり。


昨年の今ごろあたりから
なんとなく人生が楽になってきたのは

周囲が変化したからではなく
この世界を見つめる自分の視点が変わったからかもねーなんて

最近ひとりゴチているのだけど。


同時に、いままでカラダとココロの機微に向いていた意識の矛先が、
ここにきて、ちょっとまたシフトしている感じ。


ここ1年ほどサードの練習が少し進んで
まさにココロの状態如何でカラダが様変わりする事実を
毎日マットの上で体験しては、ウワーとかやってるんだけど。


本当に面白いように
日によっては全身が鉛のように重くなったり
理由のわからない筋肉痛や神経痛に襲われたり、
だけど数時間後にはケロリとしたり。


ココロのケアも、カラダのケアも、同じくらい大切だなぁ、
なんてシミジミしているときに、偶然いただいたフラワーエッセンス。


これがまた、ドンピシャのタイミングというか

カラダだけじゃなくて、ココロだけじゃなくて
そのどちらをも超えた次元で、そのどちらをも包容している
ひとまわり大きな「ワタシ」という存在に
働きかけてくれるんだな、と実感。


ああ、これか。


直接的に、ガッツリとピンポイントで
腰や肩の痛みに働きかけるのではなくて

なかなか良い子にしてくれないココロの癖を矯正するのでもなくて

もっと深い、大きな次元での、「ワタシ」という存在を
微細な繊細なレベルで、整えていくことで

カラダやココロといった、目に見えて分りやすい部分のちょっとしたノイズは
自然に淘汰されていくんじゃないかな、と。


そしたらね、アシュタンガの練習も
なんだか随分、軽やかに楽しくなってましたよ

カラダの一部が痛いとか、固いとか、重いとか
ココロの状態が、イライラしてるとか、ダラダラしてるとか

そういう部分に惑わされなくなってきた。


仮にそれをプラナヤマコーシャとか
サトルボディとか呼んでもいいけれど

そういう言葉自体が、マユツバに聞える向きもあるので
私はとりあえず
カラダとココロを超えた、微細な次元の存在
もしくは「目に見えないナニカ」って表現することにする。


アシュタンガヨガのアサナの練習って
カラダとココロに強く働きかけた後は

こんな風に、自然と
カラダとココロを超えた、少し微細な次元へと
私たちを誘っているんじゃないかな?


確かに私は
このココロと連動したカラダを使って
日々のアサナの練習をしてはいるけれど

ここ最近の意識の矛先は、
カラダとココロを超えたトコロで
目に見えないナニカを確実に感じている。


そして奇しくも、この時期に
日々の練習をみてくれている代行先生の
それを喚起させるパワーに後押しされ

なんとも、見事に仕組まれたような
不思議な巡りあわせに感嘆しつつ

カラダとココロを超えた冒険が
ずんずん進むよ


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