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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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奢りと謙虚さ  

しばらくおさまっていた月経過多が、また戻ってきたのか、ここのところ隔週でマイムーン。同じく隔週でやってくる満月新月のムーンディと合わせると、結局毎週スタジオ練をお休みすることになるので、なんかペースが乱れがち。

いずれのムーンデイであっても、自宅でアシュタンガじゃないヨガアサナは普通にやるのだけど。現在のサード前半の練習は、「継続してナンボ」みたいな部分があって、肉体的なポーズができる・できないの世界ではなく、「こんなシンドイこと、マジ無理」とヘコたれてしまう心の弱さへの規律を保てるか否かってトコで、コンスタントな継続が必要なんだなー、と最近シミジミ痛感。

このあいだ、風邪と生理とで1週間近く休んだ後で練習をしたら、最後のポーズ、ガーラヴァーサナで、「見つけた!」と思っていたモノが、あれ?となくなっていて、何度やっても崩れ落ちる。面白いくらい落ちる。その結果に対する自分の反応も面白いくらい焦っている。ま、今日は調子悪いからいっか、また明日~、と呑気に構えながらも、心のどこかではちぇっ!と舌うちしつつ(笑)結局2週間くらい「アレ?あれ?」と落ち続け、次第にその状態に対して冷静になり、ついに謙虚な気持ちが生まれてきた。

正直なところ、ガーラヴァーサナで楽チンにポーズに入ってキープができ始めてから、自分の中で「ヤリ~、イエーイ」的な奢った気持ちがあって、エゴがニコニコしていたのは確かだ。

面白いなと思ったのは、そんな得意満面な心持ちで練習していたときではなく、思うようにできなくなったポーズに頭を垂れて謙虚な姿勢になってきたときに、先生は次のポーズを手渡してきた。あれ?数週間前のバッチリイケイケの時じゃなくて、こんな低迷期で腰の低い時に、新たなチャレンジなの?と、不思議に思いながらも、同時に「だからこそ」なんだな、と腑に落ちた。

カラダが作るポーズというカタチじゃなくて、生徒がどのように練習自体に取り組むか、の姿勢の部分を、先生は見ている。美しさとか、カッコよさとか、それはエゴを満足させるけど、練習の目的じゃないでしょ?って、ニコニコしながら伝えてくれる。だけど、それは、決して「楽をしろ」ってことじゃあない。しっかりと、この肉体を使って、心の練習をしなさいよ、と。そう言われてる気がして、気が引き締まった。

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そして、このエカパダ バカーサナが、死にそうにキッツイ。。。というのは、言わずもがな。
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第二の思春期なので、アレコレ書いてみる  

10月の終わりごろから、風邪がグスグスと長引き、丈夫なはずの消化器官が弱まって胃炎になり、そんなときに限って職場のポジション異動で多忙になり、この季節恒例の「えも言われぬ不安と憂鬱」に押しつぶされアップアップしていた、第二の思春期(=更年期)の秋。

だからといって、別段「なにかがどうだ」ってこともなく、色んなことが流れるように繋がっては離れ、遠ざかってはまた出会う・・・そんな繰り返しの中、「うれしい」も「かなしい」も紙一重になって境界線を失うのを、ただ見守るように淡々と日々を過ごしてたような。

ヨガアサナの練習を日課にして良かったなと思うのは、どんな時でも自分の内にしっかりとした芯を保つことができる、ってこと。どんな嵐のような逆境に身を置いても、全てを投げ出して逃げ出すこともなく、燃え尽きるまで戦い挑む事もなく、翻弄されながら、流されながら、揺らぎながら、それでも、戻ってこられる場所が、自分の中にちゃんとあるんだな、って。それはミワユミコという個が持つ知性や思考や感情や習慣ではなく、人間システムに刻み込まれたDNAのような、普遍的なよりどころみたいな部分なんだけど。

アシュタンガヨガという特殊な修練を、毎日毎日10年近くもやっていると、アタマではなく、心でもなく、カラダの智慧への尊敬や畏怖の念が生まれてくる。それは、つまり、「”私が”それを行う」というエゴゲームからの逸脱なのかもしれない。

”私”ごときのちっぽけなエゴが「肉体をコントロールしてヨガアサナのカタチをつくろう!」と意気込み、努力を重ね、進歩を望み、結果を求め、焦燥にかられ、喜びを味わい、挫折と諦念を知り、否定したり、手放したり、アーダコーダの模索を延々と続ける・・・当時「これがヨガの練習だ」と思ってやってきたことは、まるっとそのまんま自分の「人生ゲーム」の濃縮・縮小バージョンというか、結局のところ、自身の生き方そのものを映す鏡だったワケで。

それにハタ!と気づき、何かが解けたときに、いわゆる「ヨガ」とやらの扉をたたく「はじめのいっぽ」を踏み出したのかな?って、今となってはそう思う。そこから、ヨガアサナの練習自体が、ガラリと変容したのも事実だし。

毎朝マットの上で過ごす1時間半は、慌ただしい生活の中で、かけがえのない神聖なひとときだし。この練習を通して、自身の「生き方の現れ」を改めて見つめ向き合った学びは、この人生の大半を占めるマットを離れた時に、自然と活かされ反映されてくるんだから。だったらこの神聖な時を、自分のちっぽけなエゴが求める、ちっぽけな喜びを求めるゲームに貶める必要は、ないじゃん?って、オツムじゃなくて、ハートでもなくて、カラダがそう言い続けてくれた。

実は、今年になって復帰したサラリーマン生活の中で、朝練をキープするのはムリかも、と思ってた。だけど、実際やってみれば、すべてはやりかた次第なんだと気づくのに、あんまり時間はかからなかった。無理はしないけど、努力はする。身体よりも、ココロのディシプリン(規律)を整えるように心掛ける。それだけで、あれほどケガや痛みで中断しがちだった練習が、コンスタントにフラットに、小さな山谷はあれど、ちゃんと続いている。

あー、そうか。ヨガアサナって、まさにカルマの顕れなんだ。身体が固い、気が散りやすい、ケガをしやすい、いつもどこか痛い・・・そんなコンディションの源泉は自分自身そのものというか、その人が、どのような生き方してきたか、どんな世界観を持ち、どんな習慣的な反応パターンを持ち、どのように自分自身と、自分をとりまく世界と関わってきたのか、そのまんま、まるっと現れているだけのハナシなんだなー、と。

だったらさ、変な部位ごとのストレッチしたり、ワークショップで知識を詰め込んだりするよりも、自分の生き方の姿勢を整えるだけで、マットの上の肉体は随分と変わるよね。言い換えると、マットの上のストラグルが、私たちの生き方の姿勢を整えるキッカケつくりになってるってことか。ふふふ。

なんてね、そんなこんなで、いまだに飽きもせず、アシュタンガヨガ、続けてます。もう50歳になっちゃったんだけどね、へへへ。

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