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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

ちょっと重たい  

ハーフセカンド@神保町マイソール

サクっといきたいが、なんか身体ダルダル。こういうときは呼吸をあえて浅めにする。

基本ネチ練、基本全てのポーズ&ビンヤサに全力投球120%、基本バカみたいに呼吸が長すぎ・・・のタパス気質ではあるが、さすがにこの夏は時折それ自粛。

後頭部にオデキができて、腫れてきてます・・・ガーン、また免疫落ちてるのかな?LBH(leg behind head)系でアタタっ!うわーヤバっ、と気づく。

カランダやっと安定してきて、ゆっくり、ゆっくり、降りてく感覚が戻った、ワーイ。ただ、ポーズに入ったときに、あご引いて猫背になって顔が床スレスレ&上半身を丸めちゃってるから上がらん、との指摘を受け、なるべく頭を床から離すよう、アゴ前に突き出す感じでトライするが・・・できん!肩が弱くてキープできない。ポイントはここか?そうなのか?どうなんだ?

カランダUPの練習10回くらいやると、もうヘロヘロで次のマユラーサナが「どーでもいいわー」になる。よくない習慣だ。やる気なし子さんで挑むマユたんは、はたして・・・いつものとおりヘナチョコなのであった。

ハンドスタンド~ドロップオーバーも、やっとこ安定してきた・・・と思ったら、ヴリシュチカーサナ(覚えたよー)ひとりでやれ、との指令。ふむ、トライはする・・・が、”どこで止まればいいのよー、ドーン!”もいっかい、”やーん止まらないー、ドーン!”の繰り返し。イメトレ的にはキノの動画なんだが、実際のこのタプタプ身体はそんな思うようには操作できず、”ドーン!”・・・これは、要はハンドスタンドがちゃんと安定してないと無謀だなー。絶対に使わせてくれない「壁練習」の企みは本日もことごとく玉砕だが、壁に頼ってちゃー、できるもんもできないし。ま、いっか、地道に毎日、ドーン!と落っこちとこ。

アジャストされてのドロップバックは、これまでの「降りてくときに空中から直接足首をつかむ」やり方から、「一旦床に両手をついてから、手を歩かせて足首つかむ」やり方に変わった。空中から直接つかむ方がアドバンスなのかなー、と思ってたが、実はこれ肩関節のオープニングに関わる部分で、「別のポーズ」みたいなものだ、と気がついた(むかし蔵衛門がそんなことを言っていたが、当時の私には聞く耳がなかった)

空中から直接足首をつかむのは簡単だ。なぜなら、私の弱点である肩周りにはほとんど働きかけず、胸から腰にかけての背骨のアーチを深めるだけだからだ。(私は特に胸をグワーッと開かれる感覚がある)ただ、私はそれほど後屈が深まってないので、どうしてもこのやり方だと膝が曲がってしまう。背骨アーチの足りない部分を膝を曲げることで補っている状態。

足首つかめりゃーOKっていう単純な「ゴール・オリエンテッド=目的達成」メンタリティでやってる分には構わないけど、ほらヨガってさ、もう少し深遠であってもいいわけじゃない?(笑)とすると、いまここで自分に欠けている部分、弱い部分、変化の可能性のある部分はどこだ?と探求したときに、そこを押し広げていくやり方っていうのは、「とりあえずの目的達成」に安住するより、もっと大事なんじゃないか?と、個人的には思うわけで、その点で私は今習っているニーチャンの「マジっすかそれ?」的アンリミテッドな姿勢に、ゾッコン惚れてるのだ、かなり片思いだけど。

ところで一方、一旦床に両手をついてから、足首まで手を歩かせるパターンだと、その過程自体が目的というか、足首つかむ着地点は最早単なる目の前の人参でしかない。脚はガッツシとまっすぐに固定させられバッファとれない状態なので、当然弱い部分を開いていかなきゃんらんゆえ超キツイ。そして頭を床スレスレにして肘曲げて誤魔化せないよう固定されるので、私の笑っちゃうくらい固い肩周りにシッカと働きかける寸法だ。最近カポタでカカトとってから、一旦肘伸ばして、肘を内側に入れてポーズに入るよう仕込まれてるが、それもこれも、呆れるくらいガジガジの肩回り、すなわち私の弱点をなんとかしよーぜ、という方向性が見えてきたから、結構真面目に取り組んでる。「えー、なんでー、自分でカカト掴めたんだから、もーいーじゃん」と文句たれるのは卒業したんだ、エヘン。

ともあれ、本日も無事、ハーフセカンド終了。しかしこう暑いと、さすがにバテるというか、胸が気持ち悪くてオエッとくる。ドロップバック1回やるごとに餌付くってのも、夏の風物詩ってことで(笑)。

今朝は練習終了後、なぜか身体に悪いものを摂りたい衝動にかられた。市販の炭酸飲料水なんて何年も飲んでないのに(インドにいたときは別)、とりつかれたようにコンビニに駆け込み、見たこともない炭酸飲料水を購入、一気飲みして、プハー。口の中いっぱいにケミカルが広がり、なんかホッとした。変なの。
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めざせサク練  

ハーフセカンド@神保町マイソール

週明け、すこぶる快調。
スリアからして超気持ちよくって、あれー?こんなの久しぶりだなー、と嬉しく思いつつ、はたと気がついた・・・体調崩してからというもの、無駄な”溜め”満載のスカしたスリアナマスカーラやってない(笑)

ドーダの人オーラ満載のあれはあれで、結構気持ちよいのだが、余計なことやるエネルギーをセーブするだけで、こんなにスッキリシャキッっとクリアになるのか、とフムフム。

金甌日のプライマリーをお手本に、今朝のハーフセカンドも決められたビンヤサとおりのサク練を目指す・・・が、やっぱりセカンドのポーズでやるのは難しいー。特にカポタは、まだまだ先が長そう。

つか、カポタの後のジャンプスルーなんとかしようぜ、私。(1回もできたことがない)

そういえばバカサーナBの成功率が、1勝5敗くらいに低迷中。たまに前につんのめって顔面打つのがけっこう屈辱的で、ひとりでマットの上でブイブイ言う。

エカパダ、ドヴェイパダ、ネチネチやらないと深ーく肩のほうまで脚がかからず、ヘルニア首への負担が不快。でも、不快だけども、反対に言うと、ヤワな私の首が鍛えられるよい機会なのである。がんがれ、わし。

・・・あ、そうそう、首への負担がキツくて、エカパダのビンヤサアウト、一旦チャコラーサナになるトコ(これカッコよくて好きなの~)が、できんぞなもし。それは首じゃなくて腹だよ、って突っ込みはやめてね。

ピンチャ・カランダ、少しずつ復活の兆し。先週はマジ呆れるほど体力なくって、ヘロヘロ崩れ落ちてたのだが、一応共にイッパツでヤリー^^くらい安定してきた。そのかわりピンチャ肘(=かさぶた)スゴイことになってて、これはこれで、うーむ。

マユラーサナはですねっ、私的には相当な進歩でっ、ちゃんと脚伸ばして空中に浮くこと5呼吸なんですけどっ。ニーチャンいわく、「それは正しくない(キッパリ)」らしいっす、えー!背中丸めて、頭が下がって、ヒザ曲がって、肘が離れてるのは、いくら浮いてても、マユラーサナじゃないんだと。「私腕短いゆえ肘離れる」というロジックは、何度言っても豚に真珠?のれんに腕おし?ロバの耳に念仏?というか、多分聞いてないもようで、しゅーん。やはり、「とりあえず浮きゃーいいでしょ?」というアザとい考えは捨てて、コツコツと地道に努力あるのみらしくって、あ”ーっ、腕伸びないかなーっ!(←まだ体型のせいにしてる)・・・なんてウダウダしてるうちに、マユラーサナ苦節2年目突入~!ああっ、まだるっこしいっ!いいかげん先進ませロー!でも荻窪とか九段下ではポーズもらいたくない(←わけわからんプライド)

マユたんまでのハーフセカンド、とりあえず、サクっとビンヤサとおりで完了。まだまだ、まごつくコトたくさん。時間をかけないとしっかりポーズに入れないのも、たくさん。でも、これまでみたいに漫然とダラダラとやらずに、少しずつ決められたビンヤサとおりの練習を意識的にやっていこう、って心に決めた。やらなきゃ、いつまでたってもできないけど、やる努力はいつからでも始められるからねー。

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miracle  

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there are two ways to live. you can live as if nothing is a miracle, or you can live as if everything is a miracle.
-Albert Einstein

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余分なモノがイッパイ  

フルプライマリー@神保町マイソール

パリブリッタ・パースバコナーサナってさ、肩をヒザの外にひっかけようとして、2呼吸くらい余分にヨイショヨイショしちゃうのよねー、でもこうしないと、深くポーズに入れないし、捻った感が出てこないし・・・なんてやってたら案の定

プライマリーくらいビンヤサとおりにやろーぜ、とニーチャン。

くっそー

その後、ものすごい勢いで、エッサホッサと余分なもの入れないでプライマリー完了しましたっ!

あっという間ざんすね、ふー。

こんなの、ひさびさかも

爽快~

ここ数日で思った

わたし、余分なもの、いっぱいあるんだなー、って。

こうやって、ちょっとずつ、余分なもの、取り払って、どんどんシンプルになっていけたら、いいなぁ。

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ライナスの毛布  

ハーフセカンド@神保町マイソール


「セカンドは誰に習った?マイソールでセカンドをやったことがあるか?」

なんでそんなこと聞くのかと思ったら、私のやりたい放題のネチ練を指して


「決められたビンヤサどおりに、ちっともやってない」

とニーチャンに指摘されて、カチーン!

「えー、やってるつもりだけど、たとえば、どこが具体的にどう違うアルか?」

と尋ねたら

「カポタAでは、ドヴェィの「吐いて」でポーズに入ってカカト掴む。床に手を下ろしてから指先歩かせて、肘伸ばしたカポタBやって呼吸して、そこからまた指先歩かせてカカトを掴んだりしない。カポタAはカポタA。そこにカポタBを入れない。」

・・・!!!

「うがーっ!そんなん、できたらやってるってばー!できないから、私バックベンド苦手だから、準備運動して身体開いていって、やっとこカカトが掴めるように、つい最近なったばかりなのー!だから、ウンショウンショってカポタBでストレッチ入れる必要があるのー!」

と、ワーワー言い訳イッパイいって、自分のやってることを一生懸命正当化してたら・・・ふと思った。

あ、この余分なウンショウンショ(カポタBを入れてストレッチ)は、もう必要ないのかもしれない。

「こうやって、やる」、と1回だけアジャストされながら、ビンヤサどおりのカポターサナにトライ。吸ってready、吐いてポーズに入る・・・そっか、たった2呼吸なんだ。

マイソールのカウントにあわせてやってたら、私がカポタのポーズに入るころには、周りのみんなはバカーサナBあたりまで進んでいるに違いない。

1個自分でもトライしてみた。吸って準備、吐いてポーズへ入る。カカトまで指をニジニジするのが、ちょっと巧妙になってきて、確かにこれ不可能ではないかも。もちろんいますぐに、パーフェクトにできはしないけど、そこを目指してやり方を変えるときなんだな、きっと。

「いままではずっとこうだった」という幻影は、気がついたら単なる不要な習慣でしかなくて、それってライナスの毛布のような「お守り」としての意味しか、もうないのかもしれないなー、とシミジミ。

本日ピンチャ&カランダ共に撃沈。どんどん沈んでっちゃう・・・なぜに?

ハンドスタンド~ドロップオーバーもヘナチョコすぎて、なんだかなー・・・もう兎に角、今日は肩がしっかりしてない。久々復活のサソリのポーズも、ナンチャッテ余興の域をでませんが、それもこれも不可能じゃあないわよっ!ってことで、オッケー。

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有無をいわせずノーブルシット  

ハーフセカンド@神保町マイソール

カポタはマットが汗で滑るので、3回目にラグを敷いた状態で、なおかつ必死の形相で、やっとこカカトを掴む、ゼイゼイ・・・自分の焦り具合が可愛いなー、と、ちとツボ。

カランダのアジャストがトンチンカンで、ヤだ。あー、もうっ、それって、バランスポイントからうんっと離れてるんですけど!って感じがね、ヤなの。そこはできますからっ!って部分も含めて、100%委ねなきゃなんないのがシャクに触る。あー独りでやりたい、あーでも独りじゃできない、あー囚人のジレンマ。(注釈:決して指導者を非難しているのではなく、こういうダダッコ的な反応をする愚かな私自身を揶揄している部分ですので、誤解しないでくださいね。この文章に対する忠告があり、この指導者への敬意を示すために、大元のブログは終了させています)

まったくフツーに練習できるので、ハンドスタンド~ドロップオーバーにも挑戦。しかし久々なので、精神的&肉体的バッファをしっかり確保して、とりあえずは壁を使ってかわゆくハンドスタンドの練習・・・なんてピヨタンな姿勢が通用する指導者では、はたして、なかった。

ま、とにかく、やることやれ、と。ウダウダも、いいわけも、いいから、とりあえず、やれ、と。

・・・・ ふむ

私は昔から自分の我を通すために、アーダコーダと「補足事項」やら「根拠の説明」やらが沢山ついてくるウザーい性分なのだが、ひとことでいって、それ単なる言い訳でしょ?ってこと、見破られてる。

これまで殆どの指導者に対しても、このロジックを多用しては、スタジオであっても「やりたいことをやる」練習ばかりしてきたし、そこにストップがかかったり、お説教が入るものなら、わたくしギャーギャーと、それはもう(笑)

でもなんかね、このニーチャンだと、そこのあたり、素直に「はい」、って思えるのが不思議。「トリコナーサナでは、もっと足幅狭くして親指つかんで」という、ミワユミコに対する絶対的禁句を、サラリと幾度も繰り返した挙句に、しかと躾けたのは、この人が初めてなんじゃないか?

ま、ともあれ、エイヤッとハンドスタンド。加減が分からず、勢いあまって向こう側へドッスンして、首グキリ・・・なんてヤダよなー、とか思いつつも、意外と優等生的に「両足そろえてヒザまっすぐ、お腹を使って足を上に」でバランスポイントへスッと入れた。しかしキープは難しい。ちょういちょいと支えられながらのハンドスタンド5呼吸、お腹プルプルで笑えてきた。そこから久々のドロップオーバーは・・・うーん、背骨を曲げる感覚をすっかり忘れてしまい、上半身まっすぐのまま着地、当然肩に負担がかかる。ま、ぼちぼち、戻していけばいっか。

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ひさびさ  

ヘルニア復帰後、初のハーフセカンド@神保町マイソール

もうちょっと癒しのプライマリーに留まって、ゆっくり戻したほうがいいのかな?いきなりやっちゃって大丈夫かな?また痛めたりしないかな?セカンドってナディショーダナでしょ?言い換えると背骨ワークってことでしょ?(そうか?)ヘルニア君ビックリしないかな?などなど、チッタのブリッティがワサワサしながらも、様子見でヴィラバドラーサナまでやってみる。最近ウトゥカターサナの、あの背骨全体のS字カーブが、自分の状態を図るチェックポイントになっていたので、それだけ確認してからゴー!しようと思ってたのである、ふむ。

久しく後屈ワークしてなかったので、ウシュトラで20呼吸x2回繰り返して、身体を開いてからカポタに挑む・・・したらカカト楽勝で掴むが、右肩のヘンテコな違和感が気になった。ウシュトラ・ラグバジュ・カポタの3巴とブリッジ、足の付け根の伸び具合が、ほんとに気持ちよい。これまで抱えていた「ヤダヤダ後屈イタイ・コワイ~」恐怖症は、なんだったのだろう?あれだけウンザリするほど続いていた腰の痛みはどこへいったのだろう?バックベンドのオープニングプロセスは、ここにきてひとつのフェーズを終えたのか?そうなのか?どうなんだ?

はたまたピンチャ・カランダ1発でOK、えええ?「久々だから別にできなくたっていいやー」という意気込みの無さがよかったのだろうか?ブランクはあっても、カラダ君がちゃんと覚えてくれてたってこと?ま、いいや、どっちでも。

マユラーサナ・・・わははははー!相変わらずだー!

ドロップバックも、お!反れる、大丈夫。首も倒せる。気がついたら、カカトを床から浮かさなくなってる自分発見。え?いつからだ?今朝か?もっと前からか?ちっとも気づかなかったぞ。

あらやだ、全般的にほとんど問題ないじゃないか、ビックリだ。先週のリハビリ・プライマリーの方が、もっと大変だった。私本当にヘルニアの症状があったのか?マーヤか?胡蝶の夢、むむむ、どっちがだ?

いやしかし、練習後の身体の内部の風通しのよさったらない。これじゃハマるのも無理ないか。こうしてアシュタンガヨガバカがまたいっちょうできあがり。

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being happy  

being happy doesn't mean that everything is perfect
It means that you've decided look beyond the imperfections


beinghappy.jpg
http://fuckyeahyoga.tumblr.com/post/967792883



わたしここのとこ
ちっともしあわせじゃなくて
いつもしょぼんとしてて

くちをひらけばどくばかりだし
みるものすべてにうんざりで

みんなもうだいきらい
あっちいってー!

みたいなかんじで
なんだかもう

ほんとはだいすきなのに
えがおになれなかったり

ありがとうっていっぱいいいたいのに
なんだかこわくてにげちゃったり

かまってほしいから
いじわるなこといっちゃったり

なんかこどもみたいだけど

そういうときって
ネガティヴなものをひきよせるのか

みしらぬひとにからまれたり
たよったひとにうらぎられたり

あらやばい
ふのスパイラルだ

ぬけださなきゃと
もがけばもがくほど

ずぶずぶと
ふかみにどんどんはまってく

それはもう
わらえるくらいで

そういうときはじっとして
なみがさるのをまつばかり




もうずっとここからでられないのかな
いつまでもここでぽつんと
せかいからはじきだされたままなのかな

そんなふうに
じーっとうずくまってるとき

うつむいたまんまのめのまえに
さしだされるようにやってくるものがあって

なにげないやさしいことばだったり
なんでもないやわらかなえがおだったり

びっくりするようなゆうやけだったり
しずかでおだやかなかわのながれだったり

せかいはいつでも
じぶんがそれをどうみるかで
すがたをかえてくるんだな、って

こころからほほえめば
とりまくせかいはあたたかくなるし

いかりをなげつければ
せかいはそのまんま
つらくきびしくたちむかってくるし

しあわせになろうと
やっきになって
いまのすべてを
かえようとするんじゃなくて

いまのすべてを
いやなこともみんなひっくるめて
いいよ、いいよ、って
あるがままにしてあげる

じぶんのなかの「こわい」を
みすてたりしないで

うんとおくのほうの
いちばんふかいところにねむってる
あたたかいキラキラとしたもの

それはいつもどんなときも
くもにかくれたあおぞらみたいに

みえなくたってちゃんとあるんだ、って
いつでもしんじていられれば

たぶん
どんなときでもだいじょうぶ



そんなことに
ふときづかせてくれた
あなたのスマイルに
ありがとう




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【個人的考察】頚椎ヘルニア、その後6  

このように過去の経緯を改めて振り返ると、ヘルニアの症状がでて、痛みを共に辛いリハビリ練習をして、ゆっくりゆっくり回復、というパターンを2度ほど繰り返しており、共に復帰までに4ヶ月ほどかかっている。

「痛みと共に続ける練習」という幻影を追いかけるように、「ヨガ的常識」や「指導者の教え」に惑わされて、一番肝心な自分自身の「身体の声」とやらを聞いてこなかったようだ。

そしてなによりも、自分の「老い」に対する恐怖。練習を休んでしまったら最後、二度と元には戻らないのではないか?という不安。20代30代のピチピチと弾けるような練習ではなく、体中に鞭打ち「これが人生最後の練習」くらいの気概で、必死こいて足掻いてるのが、私達中年~初老世代の練習だ。上達や進歩よりも、後退や退化の方が著しい現実から逃げるように、それを認めたくがないゆえの全力疾走が、いつもそこにはあった。私個人のアシュタンガヨガへの執着なんて、「ババァの最後の足掻き」・・・この一言につきるようなものだ。

今更ながらの発見なのだが、ヘルニアの症状が出るのは、決まって過労にもかかわらず突っ走っているときだ。1日24時間じゃあ足りなくて、くつろぐ時間など皆無になり、睡眠時間が4時間を切ったあたりで、大抵でてくる。さらに感染症やらの免疫機能低下が併発した時には、もういいかげん気づきなさい!のサインというか、最終勧告だ。

たとえば今年の6月ごろから、免疫機能の低下、疲労回復力の低下、貧しい食生活、足りない睡眠、常に抱えているストレス、ここに加えてアシュタンガヨガなどというデマンディングなエクササイズを毎朝行い、毎週末のワークショップ、平日夜マイソール等々オーガナイズしては、通常ヨガクラスもあるし、平日は毎日ランチやさんごっこ、その仕込みは毎夜11時まで・・・なんて毎日を送っていた。休日?ないない。休息?なにそれ?

アホですね。

んで、とりあえず、取り組んでみたのは、とにかく「休む」ことにした。体力温存と回復力を高めることを目的に。アシュタンガヨガの練習を中断して、パクパク食べたいものをよく食べて、グーグ寝たいだけよく眠ることにした。とりあえずは、身体的な痛みと違和感が完全になくなるまで。

同時に、意識的に観察をするようにした。変化に対して繊細になり、サインを見逃さないように。自分の○○○したい!というエゴのために、大切なものを犠牲にしないように。自分の身体と心の機微くらい、自分でしっかりと捉えられるように。

最後に、しかし最も重要なのは、外部からのアドバイス、忠告、信条、教義、などなどを、そのまま鵜呑みにせず、自分自身にとっての真実を見極めたうえで、自分自身で責任を持って選択をする、ということ。


「アシュタンガヨガは週6日マットの上に立ちます」
「痛みはオープニングプロセスです」
「痛みと共にできる範囲で練習を続けましょう」



あなたの身体と心がそれを感じているのなら、それを求めているのなら、それはそれでよし。

だけど、心も身体もイヤイヤしてるのに、自身に鞭打って辛いことをする必要は、ない。それを「グウダラだ」とか、「真剣じゃない」とか、「アシュタンガじゃない」とか、言いたい人には言わせておきましょう。全てを放棄しなければならない状況だって、ある。それを認めなきゃなんないときも、ある。それだけのこと。

10日間休んでよかった。それが20日間だったら、また違った視点が持てたのかな。4ヶ月=120日間の痛みを抱えた辛い修行よか、潔くきっぱりと身を引く数週間のほうが、健全だ。

頑張りやで、弱みを見せられない、エエカッコしいの私のことだ(笑)、これからもヘルニア君は、ちょこちょことサインをだしてくるだろう。だけど、これからは、もう少しだけ賢く、付き合っていけるんじゃないかな、と。そんな風に思う、ここ数日である。



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【過去の経緯】頚椎ヘルニア、その後5  

これまで、痛みや不具合があっても、できる範囲で練習を続けてきた。指導者の面々も、「ヨガの怪我がはヨガで直す」というザケンナコラ・ナンセンスを滔々と説きながら、「できる範囲の練習を続ける」ことを推奨していたから、そういうものだと思ってた。

しかし、ヘルニアになってからというもの、痛みの症状があるときに練習を続けることで、ほぼ100%明らかに状況を悪化させてきた事実がある。過去の日記を読み返すと、同じことの繰り返しだ。



2008年1月
当時はヘルニアだと知らず、「痛みとともに練習」を続けて悪化させて、症状が治まるまでに4ヶ月かかってる。背景としては、前年8月歯肉炎悪化。抜歯。TTC始まり心身の膿だしまくる。遠距離通勤、仕事、練習、TTC、家事でアップアップ、常に寝不足。11月ダイエットして食事制限、免疫力落ちて鼻腔内感染症、バックベンド開き始めて背骨(特に腰)が常に痛い、12月ついにひどい腰痛でヨガ禁止令。

1月
完全なヘルニア症状出てます
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-128.html

それでも練習して悪化させてます
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-127.html

2月
痛い中がんばってリハビリ練してます(涙)
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-123.html

3月
あーあチャクラーサナなんかやってる・・・
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-119.html

4月
やっと落ち着いてきたもよう
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-117.html



2009年1月
想像を絶する激痛で病院へ。MRIでヘルニア確認。西洋医学・東洋医学・その他ボディワーク各方面から治療にあたりつつ、2月からヨガの練習復帰。リハビリ期間は4か月。背景としては、前年10月バリリトリートでブラックマジックにやられ、虫刺されから感染症にかかる。マイソールのアシストを始め、遠距離通勤、仕事、練習、家事でアップアップ、常に寝不足。仕事場での嫌がらせ~退職に追い込まれるストレスもあり、サインは沢山あった。見逃したのは自分のエゴ。鎮痛剤を毎日服用して、痛みや不安から逃避しつつ、気付かないふりして突っ走っていた。12月には精神面で超鬱状態、ネガティブな世界にどっぷり。

12月
すでに黒々としたこころもよう
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-319.html

弱音はいてる
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-326.html

1月
ついにキテます
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-328.html

それでもアシストしなきゃ迷惑かかるし、と・・・。馬鹿です。
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-329.html

もう痛くて痛くて痛くて痛くて
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-331.html

リハビリヨガを始めてます(パワンムクターサナ)
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

腐ってます
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-342.html

2月
アシュタンガに復帰してます、はやっ!
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-353.html

3月
ドミニク先生のもと、カポターサナまで戻してます、無謀です。
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-360.html

4月
チャック&マティのマイソールで心身のリハビリ。
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-365.html

5月
リハビリ一旦終了、新しいポーズへ進む
http://everydayashtanga.blog116.fc2.com/blog-entry-375.html

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【実録・2010年夏】頚椎ヘルニア、その後4  

では実際に今年の夏、どのようにヘルニア症状が発生してきたのか。まだ記憶も新しいので、細かく振り返ってみた。

6/28~ Level 2
左肩関節~上腕にかけて筋肉痛のような違和感。チクタクのやりすぎと判断し、ハンドスタンドとチクタクを封印。肩にかかる負担(ジャンプバック&スルー)を軽減しながら、いつもの練習(ハーフセカンド)を続ける。

7/1~ Level 2
左肩~腕の痛みは引かず、シップを当てながらリハビリ的に自己練習へ。バックベンドが開いてきたこともあり、カポタやエカパダラージャカポ、シャチホコのポーズ、さそりのポーズなどの深い後屈系を探求するようになり、アシュタンガというよりは自己流ヨガ。2日練習しては1日休み、日によってはスタンディングだけ、といった自分の調子(身体的&精神的)に応じた練習となる。

7/12~
虫さされが元で感染症にかかり、日に日に症状が悪化する中、右肩~腕の痛みが引いてきた(別の痛みで無感覚になってた?)ので、ハーフセカンドの練習に戻す。化膿した脇腹があまりに痛いので、鎮痛剤を摂るようになり、恐らくこれによりヘルニア痛を誤魔化してしまったのではないかと。

7/16
感染ショック症状で強制入院。しばらく休息をとる。

7/20~ Level 3
練習復帰。ハーフプライマリーまでをゆっくりと。切開した脇が引き攣れてシンドイ。抗生剤と共にロキソ(鎮痛剤)を摂っているにもかかわらず、肩の違和感が戻ってくる(鎮痛剤がなければ相当痛かったはず)。胸の中心~首の付根が苦いような、苦しいような、嫌~な感じ。背中が常に張っていて、シップで凌ぐが、こりゃもう明らかにヘルニア痛の前兆。

7/30~
ビンヤサがない分、実は楽チンなハーフセカンドまで練習を戻すが、WSではしゃいで転んで掌の付け根を打撲。両手を床につくのが難儀。

8/1~ Level 4
勇気を出してスタジオでハーフセカンド。ヨガニドラサナが終わった時点で、背中~肩甲骨~腕にかけて電撃痛が走り、リタイヤ。首を上に向けると神経を噛んで左腕が焼けるように痛む。ヨガの練習どころか普通の生活動作でも激痛が走る。ちょっとパニック。どんな姿勢をとっても痛くて寝れず、睡眠不足に加速がかかる。

8/5~ Level 5
3日ほど休んだら痛みが引いてきたので、練習に戻ってみる。1日目はハーフプライマリ+ウシュトラーサナまで。なんとドロップバックまでできて、超気持ちよい練習。しかし、2日目には全身が痛みで動かず、ハーフまでできずにリタイヤ。ちょっと動けたから、と過信しすぎた。ヘルニアの急性症状が2・3日で引くはずがない、反省・・・というか、もう既に「くしゃみしても激痛」のレベル、時すでに遅しだ、トホホ。

8/7~
練習を完全に中断してみる。

これより10日間、とにかく休んだ。全てのストレスから手を引き、ただ動物のようにグーグー寝て、パクパク食べて、とにかく自己治癒力を高め、回復を待つことにした。

8/12~ 
痛みが和らぎ、リハビリ的に練習再開したくなるが、完全に全ての痛み&違和感がなくなるまで、おあずけ。

8/16~ 
最後まで残っていた「寝起きの首~肩甲骨の痛み」が、ついに消滅。

8/17~ 
練習再開。ハーフプライマリまで。軽減法は不要。練習後の違和感や痛みや凝りはなし。チャトランガでプルプルしてた腕が筋肉痛。多分これは神経根症状とは違う。

8/19~ 
フルプライマリーまで。セツバンダーサナやドロップバックも含め、おおかた問題く練習できた。スプタクルマーサナでは、首の後ろに足をかけるとプレッシャーが生じるので、肩の後ろに足をかけるように、うんと深く股関節を開く必要がある。チャクラーサナは、まだ怖いので封印。ヘッドスタンドは頭にはほとんと重心をかけず、腕だけで支えている状態。(ヘッドアップの練習していてよかった)

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【背景となる心身状況】頚椎ヘルニア、その後3  

ヘルニアは常にそこにある。消えてなくなりはしない。では、なぜ、症状がでるときと、出ないときとがあるのか?症状がでてくる、そのトリガーは一体なんなのか?背景となっていた状況を整理して取りまとめてみましたっ、先生!


日常生活
◆多忙を極めた日常が続く
◆睡眠時間が4時間をきる
◆ゆったりとした時間が持てない
◆常に全速力で走ってる

貧しい食生活
◆まともな食事を摂らない
◆アイス・果物・フラペチーノで1食分
◆もともと菜食に加えタンパク源を摂らなくなる
◆夏バテ&食欲減退を言い訳にする

身体を冷やす
◆通勤電車内の極冷房(パシュミナ1枚では防寒には足りず、いつもブルブルと3時間)
◆仕事場の冷房(動き回って汗をかいてるから気づかない)
◆冷たい飲み物&冷たい食べ物
◆裸で扇風機つけたまま寝る
◆シャワーだけで湯船に浸からない
◆首周り、襟ぐりが大きく開いた服が好き

ストレス・悩み事
◆1日中アタマに問題をかかえて悶々してる
◆やらずに放置したままの物事に悩まされる
◆周囲のプレッシャーで自分を奮い立たせてる
◆追い立てられることが多い
◆急がしすぎて常にテンパってる
◆精神的なネガティブ沼にはまったまま

ヨガまわり
◆注意力や集中力が散漫
◆うかつなケガが増える
◆スタミナがなくなる
◆練習自体が楽しくない
◆義務感で練習をしている
◆瞑想の時間がなくなる
◆時間を気にして超特急で練習
◆フィニッシングを飛ばすようになる
◆シャバーサナをやらない

身体状況
◆調理仕事による火傷や切り傷がたえない
◆立ち仕事のため腰周りが張り、脚が浮腫む
◆重い荷物を運ぶので腰・肩・腕の疲労が辛い
◆ちょっとした傷や虫刺されが化膿する
◆鼻腔内におできができる
◆生理が不順(これは更年期か?)
◆頭痛の頻度が高まる
◆免疫力が落ちてくる(最悪感染症となる傾向にあり)

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【兆候】 頚椎ヘルニア、その後2  

どのような症状がでてくるのか、どのようなサインが出されるのか、ささいなことから、とんでもないものまで、段階的に。

Level 1 前兆
◆枕が合わないような気がする
◆軽い寝違え感がある
◆喉と胸の境目が苦しい
◆コーヒー類を飲むと胸が気持ち悪くなる

Level 2 警告
◆アタタと寝違えた感じ
◆首筋が凝る
◆首を回すと違和感
◆肩関節がギコチナイ
◆肩甲骨の筋肉痛
◆上腕の筋肉痛
◆喉が詰まった感じで気持ち悪い

Level 3 症状(軽度)
◆背中の中央が凝る
◆首を回すとズキッとくる
◆肩~上腕~肩甲骨にかけて痛みがある
◆常にオエッとするような喉の不快感
◆飲み物・食べ物を飲み込むのが難儀

Level 4 症状(重度)
◆上を向くと・下を向くと肩腕肩甲骨に激痛が走る
◆背中全体が凝って痛い
◆首が回せない
◆くしゃみ・咳でズキン!と身体に激痛が走る
◆首~肩~背中~腕が痛くて横になれない

Level 5 症状(末期)
◆痛みで目が覚める
◆寝起きは激痛で起き上がれない
◆呼吸をしても痛い
◆少しでも動くと激痛が走る
◆鎮痛剤が効かない

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頚椎ヘルニア、その後1  

実はワタクシ2009年の1月に、頚椎ヘルニアの急性症状が出て、ひとつきほど心身ともに廃人のような日々を送ったことがある。もとをただすと、2005年ごろから兆候はあって、2007年春、2008年初頭にも同じような症状があったが、病院へは行かなかったので、ヘルニアだとは知らなかった。そしてまた、この夏に同じ兆候が見え始め、数週間前に症状が再発。症状そのものよりも、痛みそのものよりも、同じことを繰り返している事実に打ちのめされた。

さておき、ブログやっててよかったなー、と思うのは、過去の記録が残っているところで、過去の経験から何も学ばないというか、同じ過ちを何度も繰り返すワタクシでござるが、流石に今回は真面目に過去の経緯と症状を再検証してみることに・・・はたして。

ヘルニアがあるのは事実だからいたしかたあるまい。要は、それといかように付き合っていくか、これが肝心。しかし痛みがないと、その存在すら忘れてしまうヘルニア君。あんまりホッタラカシにして、ストレス抱えたり無茶すると、少しずつサインを送ってくれるヘルニア君。それでもシカトこいてると、ドカーンと最終兵器が飛んでくる・・・そう、あの神経ズキーンの超激痛アタック!私の場合、いつもこの最終勧告まで放置するのがお決まりコースの困った野郎だ。

ともあれ、過去の記録をたよりに、ヘルニアの神経根症状がどのように生起してくるのか、またその背景にはどのような生活環境・精神状態があるのか、このあたりを明確にとらえて、今後の「ヘルニア君との賢い付き合い方」の指針というか、指差し確認チェックリストにしておこうかと。

いつものように長くなるので(笑)、今回はテーマごとに区切ってエントリーします。

次、「兆候」の部へ続く・・・。

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Stephen Lapham WS@逗子 7/17レポート  

逗子ヨガHPにアップした記事ですが、諸事情によりこちらブログにも記録としてまとめてエントリーします。





超夏日!カラリと晴れた空は快晴!最高の天候に恵まれた本日、スティーブンの日本初ワークショップの開催です。

午前のマイソールは、体調を崩されたり、怪我をされたり、レディースホリディとなったり・・・とキャンセルを余儀なくされた方々が多く、予定よりも少ない人数のクラスとなり、そのため参加者全員にとても細かい指導がなされました。クラス最後には、ひとりひとりにフィードバックと今後の練習のアドバイスもあったりと、まさにマイソールスタイルの良い部分を体験していただける、貴重な機会だったのではないでしょうか。

スティーブンの指導は基本に忠実で、いわゆる「伝統的」と言われる姿勢が貫かれています。が、彼は「伝統的」という言葉を厭い、「グルジが”correct”と言ったやり方」と表現します。

そして彼は常に私達を「いまよりも、もうちょっと先」を目指すよう力づけてくれます。ついつい私達はいつもと同じ「楽ちんゾーン」に留まりがちですが、ほんの少しの努力で、どれだけの変化が生まれるのか、ということに気づかせてくれます。

いわゆるポーズの完成形そのものが目標ではなく、そこを目指して努力すること自体の大切さを、献身的に伝えようとする姿勢は、恐らく自身が身を持って経験してきたヨガのエッセンスへの、揺るぎのない信頼と帰依の表れなのだと思います。


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午後は3時間にわたる「アシュタンガヨガ入門と探求」のクラスでした。アシュタンガヨガとは?ポーズの正しい実践法とは?ヨガ的生活とは?グルジとは?等々、私達のアシュタンガヨガの実践をさらに豊かにする内容となりました。

まずは広義の「ヨガとは?」のお話から、そしてパタンジャリのヨーガスートラへ。八肢則それぞれの意味・意義を、私たちが行っているアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガへ落とし込みながら説明がなされました。

通常は、パタンジャリのヨーガストラのラージャヨガ(アシュタンガヨガ)と、パタビ・ジョイスのアシュタンガ・ビンヤサ・ヨーガ・システム(現在私達が行っているもの)とを区別することが一般的です。

パタンジャリのヨーガスートラというのは、すでに太古から存在していた「ヨガ」ってなぁに?をロジカルに再構築しコンサイスに編纂したマニュアル本みたいなもので、そこで定義されているものをラージャヨガ(アシュタンガヨガ)と呼びます。

広義のヨガのくくりの中には、ニャーナヨガ(ギャーナヨガ)とカルマヨガのふたつしかありません。ニャーナ=Knowledge知識のヨガと、カルマ=Action行為のヨガです。ギータでは、ニャーナ、バクティ、カルマの3つのヨガがあると定義していますが、カルマヨガの中にバクティヨガ(献身のヨガ)やラージャヨガ(アシュタンガヨガ)が含まれます。

このラージャヨガ(アシュタンガヨガ)を構成する8つの枝として、禁戒・勧戒・座位・調息・制感・集中・瞑想・三昧があります。現在の私達が行っているいわゆるアサナ(ポーズ)は、この中のたったひとつの枝「座位」でしかありません。

そしてラージャヨガ(アシュタンガヨガ)によるヨガの定義とは、これら8つの枝を体験習得したのちに、最終的な三昧(サマディ)、すなわちマインドの領域における思考パターンの制御=Self Realization真の自己の発見に至る、ということです。

このラージャヨガ(アシュタンガヨガ)のひとつの枝であるアサナに関しても、現在の“アシュタンガヨガ”で行うような太陽礼拝やトリコナーサナ、ジャンプバックやバックベンドの話など出てきません。ヨーガスートラではただ簡潔に3つのセンテンスでアサナを定義するに留まります。

1:アサナ(ポーズ)は、しっかりと安定していて、かつ安らぎに満ちたものである
2:アサナ(ポーズ)への努力がやんだとき、無限なるものに意識を溶け込ますこととなり
3:これが可能になってはじめて、苦悩の根源である二元的世界観から解放される

これだけです。
私達が毎日行っているアサナの練習。できる、できない、進歩する、後退する・・・まるで振り回されるかのように、練習の全てがアサナであるかのように思えてしまいますが、ヨーガスートラはマリーチアサナDができようができまいが、全く関知いたしません。

そこで、前述した部分に戻るのですが、アサナはラージャヨガを成す構成のほんの一部でしかない、という理解のもと、現在のアシュタンガ・ビンヤサ・ヨーガ・システムを捕らえたときに、パタンジャリのラージャヨガ(アシュタンガヨガ)とは区別する、というのが一般的な考え方です。

先日行ったバリー先生のWSでは、私達が行っているアシュタンガヨガの源流を知る目的での「ヨガの歴史」というテーマでレクチャーがありましたが、ヨーガスートラにはほぼ言及せず、広義としてのヨガの連綿たる流れの中の「ひとつのメソッド・ひとつのシステム」としてアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガを位置づけていました。それがどのようなサンプラダヤ(師弟継承・宗派)であれ、その道筋は異なれど、最終的にたどり着くモクシャは同じということです。

そして今回のスティーブン先生のWSでは、アシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムを正しいやり方で行うことによって、感覚の制御、集中、瞑想、サマディまでを身をもって体験し、ヨガの叡智に触れ、マットを離れた日常生活の中に自身のヨガを広げていくというアプローチで、まずは、なにはともあれ正しいプラクティスありき、そのガイドラインとしてヨーガストラ、という姿勢がうかがえました。

個人的に面白いと思ったのは、この両名のコントラストです。バリー先生は多様性を飲み込むインド的世界観を持ってヨガ全体を包括し、その中の流れ動きとして個々のメソッドやシステムをとらえていきます。いわゆる「マクロからミクロ」的視点。

一方スティーブンは反対に「ミクロからマクロ」的視点で、パタビ・ジョイスのアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムのプラクティスを深く突き詰めることにより、そこに組み込まれたラージャヨガを体現し、そのヨガという叡智によって宇宙の智慧へと精神を広げて行く姿勢が伺われました。

ということで、ヨーガスートラを中心にヨガとは?から始まり、クリシュチャマリアとパタビ・ジョイスの生い立ちや逸話などと共に、「ヨガ・クルタ」をベースにヴィンヤサ・アサナというシステムが生み出された背景などのお話へと続いていきました。

特にグルジを語るときの熱さ(!)は、彼のパタビ・ジョイスへのゆるぎのない純粋な愛が感じ取られました。

そしてアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムの正しいプラクティスの説明。これはポーズの完成形を指すのではなく、アシュタンガヨガのトリニティ、「アライメント・呼吸・ドリスティ」の重要性の話です。

身体を使ってアサナ(ポーズ)を行うのですから、アライメントは当然大切です。しかしここで特に強調されていたのは「柔軟性は関係ない」ということ。アサナをやっていると、ついつい「柔らかい=すごい」とか、「もっと柔軟性がほしい」とか、表面だけの部分に囚われがちですが、現在の自分に与えられた条件のもとで、正しいとされるアライメントに「向かって」練習をすることが重要とのことです。

また呼吸は単なる肺機能の活動ではなく、ライフ・フォース(生命の力)=プラナを宇宙全体から取りこみ、そして送り出す、という微細な次元の意識を持つようアドバイスがありました。私達は物質的な肉体だけの存在ではなく、エネルギー体としての存在であることを前提に、この呼吸の大切さを説き、バンダもこの呼吸(=プラナ)のコントロールの一部としてとらえていたのが印象的です。

バンダは体内を流れるエネルギーを留めるロックで、丹田と呼ばれたり、骨盤底筋群・腹横筋、コアマッスル・・・様々な名称や解釈があり、人によっては会陰部や腹部の「締め付け」「拘束」と物質的な筋肉の収斂を示し、アサナやアライメントの一部として捕らえることも少なくありません。しかし頑張ってギューっと固めるのではなく、引き込むようにして体幹の特に腰周りをサポートするように安定させ、空間を作りエネルギーを保つことである、と、本来の微細なエネルギーのコントロール機能を再確認するよい機会となりました。

さらに呼吸は私達のマインド・心と密接に連動していることから、呼吸を制御することで、引いてはマインド・心を落ち着かせることができることに触れました。

そしてドリスティ、凝視ポイント。決められた凝視ポイントを守ることにより、意識の一点集中をもたらすと共に、身体のアライメント自体も変化し、特に背骨の状態が整っていきます。

これらアライメント・呼吸・バンダ・ドリスティを意識的に正しく行うことにより、特に呼吸と動きの連動を大切に行うことにより、アサナの練習が一種のダーラナ(集中)の状態となり、そのアサナとアサナの間をつなぐビンヤサによって、途切れのないダーラナが、ひいてはディヤーナ(瞑想)の状態を導く。これが、アシュタンガヨガが「動く瞑想」と言われる所以であるとの説明がありました。

アシュタンガヨガの特徴として、ますはプラクティスありき、というのがあります。毎朝、または定期的に練習をコンスタントに続け、毎回できないことにチャレンジします。練習を繰り返すということ、同じことの繰り返しの中に変化を見出すこと、自分自身の変化を知ること、それにより、煩かったマインドが、たくさんの執着がすこしづつ落ち着き、自分自身が、自分の人生が、ポジティブに変化していくことを実際に体験していきます。その効用がアシュタンガヨガを続ける私達の最も大きなモチベーションなのだと、熱心に伝えてくれました。

これらの説明のあと、実際にカウントを取って太陽礼拝からファンダメンタルまでのポーズを練習しました。インドのマイソールで指導されている正式なカウントとアライメントのため、私達がなじんでいる日本独自のスタイルとは異なります。

まずは、サマスティティヒ。立ちポーズが終わるごとに、サマスティティヒに戻りますが、日本や東アジアの国ではこのときに両手を胸の前に合わせて合掌することが多いです。しかし、サマスティティヒは「きおつけ」の姿勢で両手は体側です。

スリアBの「エーカム・吸って」のとき、両手を一旦床までおろしてから、大きく羽を広げるように両手を上に上げる「パフォーマンス」っぽいやり方が一般的ですが、そういう余分なことをする必要はなく、単に両手を上にあげるだけで充分です。

トリコナーサナやパースバコナーサナのビンヤサイン(ポーズへの入り方)は、「エーカム・吸って」でジャンプして両手を左右に開き、両足先は正面の「大の字」状態です。次の「ドヴェイ・吐いて」で足先を外側へむけてポーズに入ります。踊るように両手を開いたり、ストレッチするようにポーズに入る必要はありません。

このようにビンヤサ、ポーズへの入り方をシンプルにすることで、より集中した練習ができることを、実際に身をもって体験していきました。


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最後に、ポーズの練習を離れた日々の生活の中でも行える、ヨガ的経験や生き方のヒントのお話がありました。私達は常に様々な刺激や雑音に囲まれ、忙しく落ち着かない生活をしています。マットの上でヨガの練習をしているときと同じように、意識を「いま・ここ」に集中させることによって、マインド・心を落ち着かせる方法として、視覚、聴覚、嗅覚などの感覚を使った瞑想の説明がありました。たとえば目を閉じて、意識を100%耳に入る音に集中します。普段は捉えることのできない音や、振動を、しっかりと捕らえて感じることによって、感覚を研ぎ澄まし、自分自身を「いま・ここ」にしっかりとつなぎとめます。シンプルですがとても奥深い瞑想です。

アシュタンガヨガへの純粋な情熱が溢れんばかりのスティーブンのワークショップ、3時間は短かったようで、最後は時間ぎれとなってしまいました。今回伝え切れなかった部分は、次回に続きます・・・多分!


ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
スティーブン先生ありがとうございました、お疲れ様です。





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Barry Silver WS@逗子 7/11レポート  

逗子ヨガHPにアップした記事ですが、諸事情によりこちらブログにも記録としてまとめてエントリーします。





2日目のレッドクラスの後、レクチャークラスのテーマは「ヨガの歴史」でした。


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日本ではヨガの歴史というと、パタンジャリのヨーガスートラから始まり、ハタヨガの源泉としてハタヨガ・プラディピカを揚げるのが定番ですが、恐らくそれは現在の日本ではまだ「ヨガ=ポーズを行うこと」という認識が広く流布しているからでしょう。

しかし今回のバリー先生のレクチャーは、この2つのバイブルともいえるヨーガスートラもハタヨガ・プラディピカも引き合いに出さず、私達の狭い「ヨガの概念」を、さらに大きく広げてくれる内容となりました。

別の言い方をすれば、ヨガとはつまり、パタンジャリの編纂した八肢則(いわゆるアシュタンガヨガ/ラージャヨガ)が全てだというわけではなく、ましてやその中のひとつの枝でしかないアサナ(ポーズ)に特化した、ハタヨガプラディピカに原点を見出す必要もない、と示していたということです。

ハタヨガという括りの中の、たったひとつの流派でしかないアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガ・システムの指導者である本人が、このような視点で講義を行うというのは、ある意味とてもパラドキシカルかつ実に興味深いことです。

本来のヨガという意味で源泉を求めるのであれば、インド古来の思想であり信仰であり哲学である世界観にたどり着きます。つまり、世界(宇宙)をどのようにとらえ、わたしたちはどのように生きるのか、その意味は?目的は?意識とは?といった普遍的な疑問の回答を示すものです。

バリー先生によるレクチャーは、私達が日々行っているアシュタンガヨガの源泉として、このインド哲学ヴェーダから説明が始まりました。

その思想において、人の求めるものはアルタ(富や家族などの安定)、カーマ(喜び)、ダルマ(人としての役割)、そしてモクシャ(解脱=梵我一如)の4つがあると定義され(=プルシャルタ)、このモクシャを求めた生き方が、すなわちダルマそのものがpath of lifeでありヨガである、と捕らえられています。

この広義からとらえるヨガの遍歴、その起源から現在私達が行っているヨガまでの流れを追うと共に、(ここ肝心)、「なぜ」そのような広がり方をしたのか?を理解することが、今回のレクチャークラスの肝だったと、私個人的には感じています。

ともあれ、まずはヴェーダの基本概念とは何なのか?を理解することから始まります。ここを押さえるとインド的世界観がストンと腑に落ちます。小難しい学術的な研究対象としての「インド哲学」としてヴェーダを捉える限り、それは単なる知的遊戯に終始し、「やれ難しい、難解だ」と自ら思い込みの壁を作り上げてしまい、さらにとっつきづらくしてしまいます。しかし本来、哲学や信仰とはつまり、「生きることの道しるべと、それを支える世界観」なわけですから、5歳の子供が聞いても理解し納得し体現できるよう、説明されるべきことです。それがウパニシャドであり、ギータやマハーバーラタ、ラーマヤーナなどの壮大な叙事詩です。

ではヴェーダとは?そこに根ざす世界観とは?それは宇宙の智慧であり、生命の源である意識(コンシャスネス)を理解すること、自らの中にそれを見出すための生き方、ダルマ、宇宙との調和を保つための与えられた役割を全うすること。

インドのいわゆるカースト(ヴァルナ)も、このように捉えるとダルマです。バラモン(祭司)として生れ落ちようが、奴隷として生まれ落ちようが、与えれられた人生の役割を全うする、その道筋は異なれど、最終的にたどり着くモクシャは同じです。モクシャ、解放、サマディ、悟り、梵我一如・・・言い表す言葉は様々ですが、宗教であれ、精神的修行であれ、ヨガであれ、サンプラダヤ(師弟継承・宗派)は、そこに向かって木の枝のように多様に広がり伸びていきます。

ヴェーダ的世界観に大きな変化をもたらしたのが、仏陀の登場した紀元前500年ごろです。この時期はヴェーダを否定する自由な思想家=六師外道が生まれた時代でもあり、ジャイナ教なども発生しました。仏陀はサムサーラ=輪廻転生という新たな考え方と共に、輪廻におけるアートマンの否定、バラモン教ヴェーダ哲学の否定、カースト制度への否定を表明します。「誕生・生・死・再生」を繰り返す輪廻転生の環の中から脱して初めて解放される、という考え方は、カルマによる因果応報」としてその後インド思想の根底に流れる死生観の一部となります。

そしてまたバラモンのための難解なヴェーダを、分かりやすく記述したウパニシャドが生まれたのもこの時期です。ギータ、マハーバードラ、ラーマヤーナといった「神々や王族が引き起こす様々なドラマ」には、ヴェーダのエッセンスのメタファーがちりばめられ、その壮大な物語を楽しみながら、ヴェーダ的世界観が自然と根付くようになりました。

インド信仰や哲学や思想を、ヴェーダの権威を認めるVedic(ヴェーダ的)なものと、Non-Vedic(非ヴェーダ的)なものという区分をすると、ヨガはVedic(ヴェーダ的)であり、仏教はNon-Vedic(非ヴェーダ的)です。

面白いことに、Non-Vedic(非ヴェーダ的)として、バラモン教ヴェーダ哲学に対する反旗を掲げた仏教ですら、あらゆるものを飲み込むインド世界の中では、仏教はヒンズー教の一部、仏陀はビシュヌの生まれ変わりの化身のひとりと捉えられ、新たな概念であったサムサーラも、前述したとおりインド思想の根底をなすよになります。

さておき、インドにおけるヨガは、ヴェーダ的/非ヴェーダ的世界観を背景に、サドゥやヨギのように秘教的道を極める者もあれば、世俗に生きる人々の生活にもどっしりと根ざし、儀礼や祭事、日々の祈り、信仰として、インド国内で深く広がっていきます。

このインドのヨガが世界に広まったのは、17世紀からの英国植民地時代、イギリス人により当時の密教・秘教的ヨガや哲学が翻訳されインド国外へと紹介され、エキゾチックなオリエンタリズムの台頭とともに、西洋におけるヨガやインド哲学への興味がうまれます。

そして聖者ラーマクリシュナの愛弟子ヴィヴェーカーナンダが、「アメリカへ渡りヨガを広めよ」という使命を受け、1893年9月11日シカゴにおける第一回国際宗教会議に参加し普遍宗教を説き、大いなる存在との合一の手段としてのヨガを提唱しました。これを機にインドからスワミ・ヨギが大挙してアメリカに渡り、様々なヨガが伝わることとなります。

以降、アメリカを中心としたヨガの広まりは、最終的にたどり着くモクシャにむかって、様々な形状をとりながら、木の枝のように多様に広がり伸びるサンプラダヤそのものです。

50年代にはインドラデビがハリウッドで俳優達にヨガを教え始めます。様々な種類のヨガの中で、あえてハタヨガ、アサナ中心のヨガを伝道したのは、アメリカという土壌と人々の健康志向ゆえだったのでしょう。

イギリス植民時代に蒔かれた種が、ヴィヴェーカーナンダの渡米により西洋文化に根っこを下ろし、ハリウッドヨガ(!)により健康志向のエクササイズとして、現在のいわゆる「アメリカ発のヨガ」が広まる土壌が築かれました。
そして、60~70年代のヒッピームーブメント、ビートルズとマハリシとの出会いによる、サブカルとしてのヨガ、現実逃避、ドラッグ、意識の変容、TM瞑想、ラジニーシ(osho)、アイアンガー、ヨーギパジャン、ムクタナンダ、etc…このあたりの話になるとご自信もリアリタイムで体験しているからか、一気に熱が入りました(笑)

ともあれ、インドの太古から伝わるヴェーダの教えから、ヨガという生き方、その伝わり方、広まり方、そして現在私達がマットの上で行っているポーズの練習まで。大きな俯瞰図でとらえると、その多様性と全てを飲み込んでしまう懐の大きさに驚かされますが、でも実はみんなひとつのゴールに向かって歩んでいることが見えてきました。

バリー先生はレクチャークラスの冒頭によくこう言います。

わたしたちの行っているアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガは、単なる「ひとつのメソッド、ひとつのシステム」なのです。


「ヨガ哲学」というと堅苦しい、「信仰・宗教」というと胡散臭い、「宇宙や存在の真理」というとトンデモ系、「スピリチュアルな自己発見の旅」というと江原か?・・・そんな偏見や先入観で聞く耳を閉じてしまう私達の心に、結局のところ私達はみなそれぞれの「心の拠り所」を持ちながら、それぞれの方法で「生きる」という旅をしているのだなぁ、と思わせてくれた気がしました。

そして、ここにいる私達は「ヨガ」もしくは「アシュタンガヨガ」というひとつのツールに出会い、魅了され、練習をしています。この「ひとつのメソッド・ひとつのシステム」の背景には何が存在し、その何に自分が引き付けれられ、それは自分自身が何を希求しているからなのか、を探求するよい機会となったなら幸いです。

「アシュタンガをやっているから、ポーズのことだけ追求すればよい」それはそれで素晴らしいことですが、そのポーズを自分という小宇宙の一番外側の粗大な「肉体」レベルだけで捕らえず、内にあるエネルギーや意識や感情や知性や直感といった更に微細なレベルで捕らえていくことで、単なるエクササイズからヨガの叡智に触れることができるのではないかな、と、未熟者ながらそんなことを思いました。


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ご参加されたみなさま、ありがとうございました。
バリー先生ありがとうございます、お疲れ様でした。


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Barry Silver WS@逗子 7/10レポート  

逗子ヨガHPにアップした記事ですが、諸事情によりこちらブログにも記録としてまとめてエントリーします。




1日目はマイソールクラスからスタート。少人数でバリー先生の指導を受ける贅沢。普段都内のマイソールクラスへ通う機会のない地元のヨギ&ヨギニはもちろん、東京で生活している方々も都会の喧騒を離れ、緑広がる自然の中でのプラクティスを楽しんでいただけたかと思います。

マイソールクラスでの練習は、「師と徒」のつながりを密接に感じる場です。年に数回のクラスであっても、毎日のクラスであっても、ヨガのアサナというツールを介して互いに深く触れる瞬間。それは静かな沈黙の間(ま)であったり、暖かな体温であったり、見守られている安心感であったり、さまざまですが、そのかけがえのない一瞬一瞬を大切に感じる、よい機会なのかもしれません。

そしてまた、同じようにヨガを愛し楽しむ他の生徒さんたちと、共に場を共有して、優しく暖かな気持ちを持ち、互いにサポートし合う練習の場は、そこにいるだけで元気になるような空間です。指導してくださっている先生と同じくらい、この「場の力」は絶大でパワフルです。

普段の練習を深めた方も、新たなポーズを教えてもらった方も、いままでと違ったアプローチやアジャストを受けた方も、太陽礼拝の1からスタートした方も、全員がそれぞれに自分の「いま」に見合った練習を楽しまれたことと思います。

このマイソールクラスは一回こっきりでも、ご自身の練習はこの先もずっと続きます。どうぞこの日の気づきや学びが、この時だけで終わらず、これからの練習の糧となりますように。蒔かれた種を大事に育てて、いつか花や実となりますように。


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マイソールクラスの後は、30分のチャンティング&メディテーション。

まずは簡単にヨガの意義を説明し、なぜ私たちがヨガをするのか?の大意を再確認することからスタートです。

そしてチャンティング、すなわちナダヨガとは何なのか?その実践によってナディシステムにどのように影響を及ぼすのか?そもそもナディシステムとは?その概念の基となるサトルボディ(微細な肉体)とは?などについて学びました。

同時にムドラの意味と意義。それぞれの指が意味するものと、その組み合わせによるムドラの説明。普段無意識に行っているチンムドラー(人差し指と親指で円を描く)が、人差し指の意味する「エゴ」を親指の意味する「ギャーナ(知恵・ウィスダム)」で制し調和を図る、という意味があると知りました。

また瞑想そのものについて。静かにただ座る沈黙の瞑想だけではなく、チャンティングやジャパが、アサナの練習などより、どれだけインドで日常生活に根ざしているか、などのお話もありました。

その後、ヨーギ・パジャンのクンダリーニヨガで行われる、チャンティングとムドラとプラナヤマを同時に行うキルタンクリアの実践をしました。

この日のマントラはSat Nam(サット・ナム)を4文字で表す「サ・タ・ナ・マ」でした。Satはサティア、真実を意味します。Namはナマハ、名前を意味します。

「サ・タ・ナ・マ」はそれぞれの文字が、birth(誕生)・life(人生)・death(死)・rebirth(再生)を意味し、それぞれのムドラを同時に行いました。

プラナヤマでは吸ってSat・吐いてNamを自分の内側で繰り返します。目は閉じた状態ですが、意識のドリスティはブルーマディヤイ(第三の目)を保ちます。

繰り返し行うマントラの意味。連動して繰り返し行うムドラの意味。そしてなによりも実際に行うことによる、自分自身の内部の変化。マントラとムドラと呼吸法により、体内のエネルギーが整い、浄化される感覚を感じられたのではないでしょうか?

そして、なぜ私達は“これ”を行っているのか?の方向性、ひいては、ヨガの本来の目的の片鱗が、頭の知識ではなく「自身の経験」で体験できたことと思います。

最後に、このキルタン・クリアを通して、またそれにまつわる沢山のお話を通して、ヨガというものはアサナ(ポーズ)だけではなく、同じ目的地へ向かうための様々なプラクティスがあるのだということを理解しました。


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バリー先生が毎回必ず言うことですが、ここでもう一度繰り返し書きます。

ヨガはアサナ(ポーズ)だけではありません。アサナ以外のヨガへもぜひ目を向け、広がりを持ちましょう。様々な個性があるように、様々なヨガの種類があります。ぜひご自分に合ったヨガを見つけ、実践してみてください。その経験により、あなた自身の生き方同様、あなたのアサナも深まり変化していくことでしょう。




・ ・・このチャンティング&メディテーション30分、うち15分は実際のキルタン・クリアの実践でしたが、これだけの内容が詰まってました。私が覚えてないことを含めたら、きっと、これ以上です。さすがバリー先生、早口でまくしたてるだけあります、いえ、引き出しの多い方です。


ご参加された皆様、ありがとうございました。
バリー先生、お疲れ様でした、ありがとうございます。

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Insights - Saraswathi  

実はこの翻訳、別のサイトに掲載していたものの使いまわしで恐縮なのですが・・・。
挫けるたびに、このサラスワティの言葉にいつも力づけられてます。


Saraswathi
http://www.saraswathiashtanga.com/index.html

より抜粋


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Don’t hurry, this practice take time, the more you try to rush it, the more you will miss what it is actually about…. Everything has its own time.

決して急がないでください。アシュタンガヨガは時間のかかるプラクティスです。先を急ごうとすればするほど、このプラクティス本来の意義から遠ざかってしまいます。すべてのものには、それぞれに必要な時間というものがあります。


Let everything come in it’s own time. A plant and tree needs proper time to grow under right conditions, why should we human beings be any different. To grow into yoga means growing into life, proper conditions need to be there, but when start to feel it; you’ll come to know it is real.

あらゆるものが、その時に、自然と発生するのを待ちましょう。草木が育つためには、しかるべき環境の下、適切な時間を必要とします。なぜ私たち人間が、そうでないと言えるでしょう?ヨガと共に成長するということは、人生の中を生きるということです。そこには適切な条件が必要ですが、一旦感じとることができれば、それこそが真実であると知るのに時間はかかりません。



Don’t look for God or the Goddess outside of you. Learn to listen from within and explore a new energy within you.

自分の外側に神や女神を求めないように。自分の内からの声に耳を傾け、そして自分の内に生起する新たなエネルギーを探求することを学んでください。



A stiff body has a good potential for learning Yoga. A flexible body is usually more caught up in Bhoga.

硬い身体はヨガを学ぶ素晴らしい可能性を秘めています。柔らかい身体は大抵感覚的な享楽に囚われがちです。



Let life guide you by listening to your own heart.

ハートの声を聞くことで、人生自体があなたを導くに任せてみましょう。



On being a mother: “It took me ten years to learn the asanas well, then two children to forget about it, but the Yogic experience I got from that was more than any asana could ever give me.”

母であること:アサナを習得するのに10年かかりました。そして2人の子供が生まれ、それらすべてを忘れることになりました。そこから得た私のヨガ的経験は、どんなアサナも決して与えうることのできない貴重なものです。



feminine perspective:Through the various stages of life, yoga practice naturally changes it's form and becomes much more than just an asana. Being a woman. mother and householder with important responsibilities, our energy is redirected at times and our yoga practice gives us the courage to embrace change.

女性の視点:人生の様々な段階において、自然とヨガの練習形式は変わっていき、次第に単なるポーズだけではなくなってきます。女性として、母として、そして家庭を守るものとして、重要な責任を負い、その都度私達のエネルギーは方向を変えてゆき、ヨガの練習によって私達は、変化を抱擁する勇気を授かります。



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そして私は途方にくれる  

7月は毎週末に地元でワークショップをやった。平日は朝4時から夜12時までフル活動。いくらヨガをやってて若作りとは言え、歳は歳。精神的に不安定な時期と重なり、案の定ボロボロでてくる、でてくる。

まずは予兆として、頚椎ヘルニアの急性症状が再発。あーあ、と一気にブルーになるが、「できること・できないこと」の目安はデータバンクに格納済みなので、焦らずに諸症状に対応するべく、スタジオ練から自己練へ。

「いつになったら普通に練習できるのだろう?」と悶々としながらも、リハビリヨガとアシュタンガの間を行ったり来たりの繰り返し。

少しずつ回復してきたので、ランチやってる店から徒歩3分のマイソールへ通い始めた矢先に、ちょっとした切り傷から感染症にかかり、全身に毒が回り発熱とショック症状で強制入院・・・!プチ手術を受け左脇を切開し、数時間おきに抗生物質の点滴を受けることになるが、翌日のワークショップを決行するために、病院を抜け出して地元に戻った(笑)

術後の状況は思わしくなく、更に点滴受けーの、抗生物質飲みーの、で副作用バリバリだし、切開した後はひきつれて身体伸ばせないし、で、スタジオ通いなのにリハビリヨガは続く。

ようやく落ち着きはじめ、さ、マジ練でも!と思ったら、今度は転んで両手ついて打撲でアタタ・・・これじゃダウンドックもチャトランガもできやしないっす、ぐっすん。

その痛みが引いてきた今週の(月)久々にハーフセカンドをスタジオでやった。超気持ちよくてつかの間の高揚感を味わった。いつもはギリギリに来て45分くらいストレッチやって帰るトンデモ生徒が「は?とつぜんハーフセカンド?」と、私のバックグラウンドを知らない新しいスタジオの指導者はビックリしたことだろう。

ところが神様は相当ドラマがお好きなようで、ヨガニドラサナが終わった時点で、またしても頚椎ヘルニアの相当酷い激痛がガツーン!とやってきた。呼吸するだけでも飛び上がるくらいの激痛。マットにうずくまって、しばらく休んでから、ソロリソロリとランチのお店へ戻り、ついにここでナーバス・ブレークダウン。ああ、もう一生アシュタンガヨガなんてできないんだー、と、マジでオイオイと泣き崩れた。

えーっと、ひょっとして、これってGame over!と神様が私に伝えてる?
「いいかげんにおしっ!」ってことなのかな?
もうやるな、と?
えー?

昨日こっそりハーフ練習したら更に症状が悪化してしまい、こそこそと頚椎カラーをして激痛をしのいでる私も悪いとは思うけど(←バカ)、それにしてもこの仕打ちはないでしょう?


ああもう私は、ここで立ちすくみ、ただただ途方にくれるのみ



Predictable Obstacles (1.30)

Illness Dullness Doubt
Negligence Laziness Cravings
Misperceptions Failure Instability

Companions to those Obstacles (1.31)
Mental and physical pain Sadness and frustration
Unsteadiness of the body Irregular breath

One-pointedness is the solution:

There is a single, underlying principle that is the antidote for these obstacles and their consequences, and that is the one-pointedness of mind (1.32). Although there are many forms in which this one-pointedness can be practiced, the principle is uniform. If the mind is focused, then it is far less likely to get entangled and lost in the mire of delusion that can come from these obstacles (1.4).




Rotating Circles Illusion and Meditation

http://www.swamij.com/rotatingcircles.htm

The circles appear to move, but are actually stationary.
Focus on any of the small black circles (in the center) and the motion stops!
Meditation is similar to this picture. Meditation in action is also similar.
Train the mind to be one-pointed and the inner obstacles come to rest!

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