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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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バリー・シルバー  

ところでアシュタンガヨガのワークショップというと、アサナや動きのテクニカルな内容のものが多い。

オープン・ユア・ハート~バックベンド攻略法
開け股関節~前屈を深めよう
ビンヤサを楽しもう~ジャンプバック&スルー
恐怖を克服しよう~アームバランスとハンドスタンド
全ての要素はここから始まる~太陽礼拝とスタンディング

などなど、何も考えなくともスラスラと文面が浮かぶくらい、私たちのメンタリティはそれほどまでに単純なのか?と思うほど画一的だ。グルジいわくの99%プラクティスの“真意”を汲み取ることなく、やれバックベンドだー、やれアームバランスだー、と肉体の鍛錬に余念がない姿勢は、ある意味アッパレでもある。




たとえばバックベンドが苦手だとする。

ブリッジ3回むにゅー!ですら辛い段階のとき(みんなそうです、そうでした)、毎回UDが近づくと「あーやだなー」と思う。なぜか?=答え→できないから。そんな時の練習は苦痛でしかない。なぜか?=答え→そんな自分を否定しているから。

そういう思考回路のときは得てして「ここじゃないどこか」「こんなじゃないわたし」を希求するもので、隣でしなやかにバックベンドをこなしている人を見ては、「ああなりたい」「うらやましい」と羨望の念にかられてしまう。と同時に「できない」言い訳をイッパイ探し出しては、○○○だからできない、○○○だから無理、と行き止まり状態に陥ることもしばしば。それじゃ心がガチガチになるだけ。緩むものも緩まない。

「地点Aからいきなり地点Zを目指したって意味がない、途中過程の学びこそが練習の意義なんだ」と、キレイごとはいくらでも言えるが、実際問題グダグダに腐った自分のココロの処理にてんやわんやなのが標準的アシュタンギの現実なのかもしれない。

たとえば肩周りがガチガチに固まっているとする。長年のオフィスワーク、残業、家事、育児、ストレス・・・その人の生き様そのものが身体に現れているのはあたりまえのことで、それを否定したり非難したりする必要はまったくない。

骨盤はゆがみ、猫背で、肩こりと首の痛みが酷く、両手を真上に上げることすらできない自分が、ブリッジ?むりむり!肩が硬いから、できない、つか床を押すこともできない。肩が柔らかくなれば、できるのに・・・。どうしたら肩周りが動くようになるのかな?“バックベンドができるためには”どこをどうすればいいのかな?

そういう視点を持ちながら、あちこちのWSへ参加してはフムフム、先生にアドバイスをもらってはフムフム・・・だけど、決して練習を楽しむことができない。それどころか、なかなか進歩しない自分にイライラ。あすこに着地点を設定しているのに、どうやらたどり着けそうにない。視点はいつも「あすこ」で、「ここ」じゃないまんま。





だけど、ちょっとだけその視点を変えてみると、パラダイムシフトしてみると、どうなるか?

私は肩周りが硬いから、ブリッジの練習をすることで、少しずつこの凝りがほぐれてくる、うれしい。
今日はここまでしかできないけど、手のこの部分を意識的にこうしてみたら、あそこの感覚がちょっと変わった!へー、スゴイ、面白い、じゃぁ、ここをああしてみよう、ふーん、そっかー。

そうやって、指導者が説明するところの身体の使い方を模倣するのではなく、自分で自分の身体を探ってみる。できる範囲で色々試してみる。いわゆる完成形ではないけれど、現在の自分の状態を基点に、アチコチ冒険してみる。自分の身体を探求するということは、つまりそういうことだ。

指導者に無闇に「どうすればいいですか?」と尋ねたところで、ヒントはあっても、あなたの身体の内側は、あなた自身しか本当にはわからない。身体は「内から外」へ向かって動くものだ。外側からの力やフォームで、鋳型に自分をパチンとはめ込んだところで、それは生き生きと躍動などしない。しかしやたらめったらと好き勝手に躍動しまくっても、アサナの意義から遠ざかってしまったら本末転倒だから、そのために先生や指導者はいる。ガイドとして、道先案内人として。

ここの筋肉をこうして、ここの関節をこうして・・・と緻密に解剖学的にアサナを分解して、合理的に効率的にアサナへのショートカットを指導するクラスもあるだろう。アシュタンガヨガのワークショップというのは、大抵この側面に比重がおかれている。つまり、それを求めるアシュタンギが、それだけ多いということだ。

だけど、ちょっとまって、それは「なんのために?」
なんのために、しなやかなドロップバックができるようになりたいの?
なんのために、ふんわりとしたジャンプバック&スルーができるようになりたいの?





多分、ここがアシュタンガヨガのトリッキーな部分というか、陥りやすい罠なのかな?って、自分の経験を踏まえ、そう感じることがある。

アシュタンガヨガのシーケンスは、梯子のごとく上へ上へと昇っていて、現在のポーズができたら次のポーズへ進む準備ができたとみなされ、先に進むことになっている。

先に進むのが前提となると、停滞することや、後退することはよしとされない・・・気がしてくる。特に生真面目気質の日本ではなおさらだ。アシュタンガヨガ、イコール、自分の限界に挑戦、という風潮もある。特に早朝マイソールへ通うくらい嵌っている場合、今よりも、もうちょっと先へ、前へ、変化を求めて期待して精進するのが常、と、ある意味洗脳されているのかもしれない。

だから、できるようになりたい。そのための極意を、ヒントを、アドバイスを、気づきを、ショートカットを求めて、ワークショップに飛びつくように参加する。だから誰もがぶつかる壁のようなアサナの題材が、ヨガのポーズに特化したテクニカルクラスと称して、あちこちでWSのテーマとして謳われ、私たちを手招きしている。





だけどさ、できる、できない・・・って、その物差しの基準はなに?

いわゆる「できる」カタチをとるために、肝心要の大事な部分、呼吸も体内のエネルギーフローも犠牲にして、心と身体を痛めて、次のステップへ闇雲に向かっていくのは、どこかずれてない?

トリコナーサナでは親指をつかんで、ウティタハスタではアゴを脛につけて、アルダバッダでは手のひらを軸足の真横に置いて、マリーチAでは両坐骨を床につけて、マリーチCでは手首をつかんで反対の太ももつかんで、クルマーサナでは足を床から浮かせて、スプタではつま先ポイントして・・・言い出したらキリがないほど、アシュタンガヨガの指導は「型」へのこだわりが多い。

それは「グルジがそう言ったから」とか、「ヨガマーラに書いてあるから」とかいう、水戸黄門のご印籠ドーンみたいなロジックで守られていて、最終的にはそこを目指すとしても、では発展途上の現段階では、どうするのが最も効用的に適切であるか?という工夫やイノベーションがご法度となる傾向にあり、ちょっとでもモディフィケーションをすれば、ちょっとでも準備ポーズをすれば、「それは伝統的なやりかたではない」と一喝されるのが、いわゆる伝統的なアシュタンガヨガの世界だ。

いや、「伝統的」という言葉の隠れ蓑に潜んだ、指導者自身のこだわりでしかない、という説もある。






脱線覚悟で面白い例をひとつ
私の昔の先生はグルジから「ティッテイバーサナCの後は、ティッテイバーサナAで5呼吸→バカーサナになって5呼吸、それからジャンプバックでビンヤサアウト」と習い、そのまま生徒に指導していた。私はそれをそのまま受け継いで、そうやって練習してきた。その後別の指導者に習ったときに、「そのやり方は昔グルジが1年だけ教えていたが、今のシャラートはそうは教えていない」という理由でやり方を変えるよう指示された。方や12人しか入らないオールドシャラでグルジから直接指導を受けた世代、一方グルジからシャラートへの権限委任以降のニュージェネレーション。

つまりね、現在のアシュタンガでは「伝統的」という言葉の意味が、ちっとも伝統的じゃない。「今のマイソールでは(=シャラートは)こう教えている」を世界へ伝えていくのが、オーソライズされた指導者の使命らいしい。Giruji this, Guriji thatでは、もうないのだ。グルジは単なるヒストリーと化した。現在のアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムの連綿たる流れパランパラは、シャラートがこう言った、ああ言った、にとって代わっている。

案の定、話がそれました。







いずれにせよ、肉体遊戯の細かい部分にこだわりすぎて、ヨガ自体の大きな部分を見落としてしまうのが、アシュタンガヨガの罠だ、と前述したけど、どんな分野であれ嵌れば嵌るほど、どんどん近眼状態になってマクロに俯瞰ができなくなってくるのは、よくあること。だからこそ、たびたび原点に立ち戻って、都度広がりを持つように心がけたいところだ。じゃなきゃ、簡単に指針を見失っちゃう。

やたらと、先へ先へと向かっても、自分の一番外側のうすっぺらな外套の部分だけで、アサナを形どっても、本来のヨガの意義を見失っていたら、それは体操となんら変わらない。次へ進むためだけに、ゲームの一面をクリアしたっても、呼吸を犠牲にして、ドリスティが他人で、バンダがガサツな筋肉ワークにとって変わったら、それは、なんなの?自分をめぐる終わりなき逃走なの?

呼吸・ドリスティ・バンダを重要なツールに、アサナの練習を通して、わたしたちはどこに向かっているの?と問うたときに、その答えが「カポタでカカト掴むため」じゃ、あまりにも悲しい。できたら、せっかくヨガという叡智に触れているのなら、願わくばこのドタバタプラクティスも少しずつ、安定と安楽、意識の集中、感覚の制御、といった方向へ歩んでいきたいじゃない?

こういうことを、しかと言葉で伝えてくれるアシュタンガヨガの指導者は、日本にはまだまだ少ないと思う。マイソールスタジオはアサナ養成学校と化し、座学や講義の機会などほぼ皆無だ。かえって地方のワークショップの方が、レクチャークラスなどで指導者の姿勢に触れる機会が、実は多い。

私がここまでダラダラと書き綴ってきた事柄の殆どは、昨年秋から数回通訳を務めたバリー・シルバー先生のワークショップ、特にレクチャークラスによって種がまかれ、都度勇気付けられ、常に与えられる学びと気づきを要約したものだ。現在日本にいるアシュタンガヨガの指導者の中で、私個人的にバランスのとれた素晴らしいヨギだなと思うのは、このバリー先生くらいで、それは別にオーソライズされているから、とか、外人だから、とか、タトゥーがカッコイイとか、あんまり関係ない。


bariko02.jpg




面白いことに5月の安曇野のバリーさんWSでは、「テクニカルクラス・バックベンドの検証」なる時間が設けられた。え?バリー先生にバックベンドのテクニカルWS?できるのか?と誰もが思ったことだろう(ごめん)大体において、ばりこにアサナオリエンテッドのテクニカルクラス自体が、それ無謀な企みじゃない?と主催者のKさんに冗談を言ったものだ。はてさて、どのようなテクニカルクラスであったのか・・・?

それは、ここに私が書いた内容が、そのままパクリだと分かっちゃうんだが、つまり私たちは、なぜヨガをやり、どこに向かっているのか、大切なものは何で、些末な事柄になぜ惑わされるのか、などなど。脚の力を使って、腸腰筋を意識して、フロントをオープンして、背骨全体で均等なアーチを描いて・・・といった、よくある「肉体の表面的な説明」に終始するのではなく、ヨガの大意とテクニカルなディテールを識別するために、どんなコンディションであれ根本的な「アサナ」の意義を意識することに重きがおかれた。

「力強さ・確固さ」と「柔らかさ・リラックス」の相反する両極を同時に保つこと。呼吸と動きの連動。そして自身の肉体の限界を尊重すること。この3点を大前提として強調した上で、これらを常に意識し自覚することを促した上で、スリヤナマスカラから始まるバックベンドの要素を、基礎からゆっくり積み上げていき、最終的にスティラでスッカムなブリッジへと導く内容であった。

参加者全員同じような背骨のアーチを描くわけではない。しかし、参加者全員が同じなにかを、それぞれのポーズの中に体現していた。そしてそれは本当に美しい光景だと思った。

そして、そこに師弟関係が一瞬ではあっても確実に存在する。みんなで座って目を閉じて両手を合わせて、その瞬間を共有するだけでも、師から徒へ受け継がれていく「なにか」が感じ取られる。伝える者のゆるぎない静かな情熱は、受け継ぐ者の中へ染み渡るように伝わっていく。100%帰依するような宗教じみた茶番ではなく、胸の真ん中の部分にずっと残るような、ささやかな真実への、純粋な信頼のようなもの。それは「シャラートがこう言った」とか、「マイソールではこうだ」といった次元の話とは別世界にある。

ああ、こういう大切なものを、もっと多くの人に伝えてもらいたいなぁ、と思った。大量生産されるテクニカルWSではなく、初心者から上級者まで、肉体の前進も停滞も後退も関係なく、いつまでも残るものを伝える内容のWS。アシュタンガヨガという狭義の世界でBigger Pictureを見失いがちなときに、ちゃんと原点に立ち戻っていくきっかけとなるように。






今回7月に逗子でバリー先生のワークショップを行う理由というのは、実はそういうことなのであった。

アサナ自体に固執する自身のエゴを、「アシュタンガヨガは単なるエクササイズだからね~」という体の良い言い訳で隠蔽する、なんとも姑息な自分自身に気づけたのも、ばりこのおかげ。こんな先生めったにいないよ、大抵においてクリティカルな私が言うんだから、間違いない。地元逗子・葉山のみなさんはもとより、近郊の湘南ヨギ&ヨギーニ、そして東京近辺からのご参加も大歓迎です。お、いきなり宣伝ぽくなってますね(笑) でもほんとに、よい先生です。お時間あったらぜひどうぞ。

http://zushi-de-yoga.dreamlog.jp/archives/4924778.html

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