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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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そうしてオバサンは地下の穴倉で怪しく自己練習するのである  

今年に入ってからベジごはんランチやさんを神保町で始めた。最初はゲリラ的に、隠れ家的に、ひっそりと週3くらいで。ありがたいことに、いつのまにか口コミでお客さんが増え始め、堅気に月から金まで平日毎日の営業を開始して半年が経つ。

「高カロリー・低価格」のがっつりランチが主流をしめる神保町で、ヘルシーな鎌倉野菜のビーガンランチを、わざわざ食べにくる酔狂なヒトがいるなんて、意外だった。しかも若いOLさんだけじゃなくて、普通のサラリーマンや男性陣が、ワシワシとテンコモリの野菜料理を食べる姿に、いたく感動。

対面のカウンターで食を通して人と接していると、毎日毎日感謝の気持ちで胸がジーン。単純だけど。「ありがとう」なんて、それは私の台詞なんですが~、といつも思う。最近ハートが開いているのは、「おいしい、おいしい」って笑顔で食べてくれるお客さんたちのおかげなのかな。きっとそうなんだろうな。

しかしながらたった一人で切り盛りするランチサービスは、やはりかなりの肉体労働だ。買出し、仕込み、運搬、開店準備、営業、片づけ、清掃・・・始終重いものを運び、8時間以上の立ち仕事なので、全身がガタピシしてくるのもいたしかたない。ババァの老体に突然の肉体労働。腰まわりはもちろん、腕から肩にかけての負担が大きく、かなり酷く辛い毎日だ。

そして更に追い討ちをかけるように、6月に入り以前患った頚椎ヘルニアの症状が再発。ヨガの練習は毎日続けてはいるが、ここ1年間はずっと同じハーフセカンドなので、慣れないポーズで身体を痛めたというわけではなさそうだ。前回は右腕の神経がやられてしまったが、今回は左腕・・・。利き腕なので日々の生活にも支障が出て、うーむ、ちょっとブルーではある。

ランチ業の優先順位が高い現在、ヨガの練習は「お仕事」に支障が出ないように、「お仕事」を快適にこなすためのツール、といった意味合いが強くなってきた。年中寝不足のせいか、時たま寝坊して朝練をサボることがあるが、練習しないと労働後の疲労が大きいので、可能な限り極力ヨガることにはしている。

そして疲労が溜まっているときは、アシュタンガヨガのシーケンスに忠実な練習は、きっぱりと放棄している。「アシュタンガやりますか?それともなにもやりませんか?」というOne way or the other的な二者択一な思考回路は、もう卒業。「やりたいことができないから、やること自体を放棄する」のではなく、「ラジオ体操であろうと、できることをやる」っていう、それだけの事だ。超理想主義だった昔の私には、それが理解不能だったようではあるのだが。

アシュタンガの、肩や腕に負担をかける要素の多いビンヤサは、やったとしてもモディフィケーションに留まる。特にヘルニアによる腕の痺れと麻痺がある日には、チャトランガすらホールドできない。そこを無理して神経を痛めても、症状が長引くだけなのは経験済みなので、しゃくとりむしのポーズで代替したり、ジャンプバック&スルーもステップで床を踏みしめるようにしたりとか。代替とはいえ、決して亜流だとか、グレードが低いとか、そんなことはまったくなく、別の感覚が生まれてくるのは新鮮な驚きだ。

最近頻繁にやっているのは、仕事上負担のかかりやすい背骨全体を整えるバックベンド系と、動きの基盤となる股関節ワーク中心、いわゆる「気持ちよい」ポーズを積極的に行っている。どんなポーズであれ動きであれ、全てにおいて共通するのは、身体の内部のスペースを広げるよう意識しているということ。内から外へのベクトルでポーズをとる。一番外側の薄っぺらな外套の部分だけで、カタチだけのポーズを「模倣」する練習はしない。内部から生起しないポーズは、単なる体操だ。今の自分に疲労の元となる体操は必要ない。それだけの単純なこと。

ヨガの効用を鑑みた場合、アシュタンガヨガの練習自体に「?」と首をかしげるのは、まっとうな反応なのかな、とよく感じる。許す、赦す、緩める、開く、手放す、開放する、解放する、安らぐ、癒す・・・そういったヨガのセラピー効果を、ガシガシとワッセワッセと鼻息荒くビンヤサビンヤサまたビンヤサで汗だくになって、身体はどんどんマッチョになって、しまいには逆立ちしてチクタクしてグルンと後屈して足首つかむ超インテンスな肉体派アクティビティと、どう結びつけたらよいのか?私は現在、この迷いの只中にいて、それが結構おもしろい。

アシュタンガのシーケンスで練習するにせよ、自分のシーケンスで練習するにせよ、最近はランチやってるお店のフロアで、開店準備前に自己練習。お店は地下の穴倉なので、電気を消して練習すると、けっこう怪しいながらも凛とした空気があって、自宅でやるよりずっと集中できる。そしてなにより他者の目を意識しない分、本来の自分をキチンと捕らえなおせるのが良い。おかげで、ちょっとだけど、肩の痛みも軽減し、背骨の調子がすこぶるよい。

以前はスタジオ以外での練習なんて、デキナイ!と思っていたし、実際できなかったのだが、気がついたら独りでもちゃんと練習できる自分を発見した。そうか、独り練習の質はスタジオ練とは異なるのだ、ということを「認める」ところが、自分の足でちゃんと自立するスタートラインなのだな、と思った。特に「スタジオ練の質が、自分のデフォルト」としてインプットされている場合は、その壁をガラガラと一旦崩す必要もあり、ここで自分の執着とどう折り合いをつけるか、というヨガ的課題も出てくるのが感慨深い。

他の誰でもない、自分のために行う練習。それは、指導者や他の生徒さん達からの「認識」を意識するような自己顕示欲を満たす部分が微塵もない世界だ。大体においてヨガは発表会や展示会のないお稽古事だから、成果を確信したい気持ちが常に私たちの中に潜んでいる。ポーズの写真や動画を撮ったり、ブログを書いたり・・・そこまで分かりやすく自己顕示欲を開示せずとも、スタジオ練でこれみよがしのパフォーマンスをしたり、スタジオを離れた場所でヨガ友にポーズを見せたり、自分のヨガクラスでポーズの見本をデモったり・・・誰もがやる「ワタクシ・オン・ザ・ステージ」の瞬間。周囲は「あーあ」と辟易するのだが、やってる本人の集中度合いはかなりのもので、結果的に「普段以上の出来栄え」となるあたり、更にエゴがくすぐられる寸法となっている。スタジオ練というのは同じメカニズムで「他者の存在」の力をちゃっかり借りてるんじゃないかな、とか思う。

そういった「周囲の力」を一切借りず、自分だけで行う練習は、もちろんパフォーマンス面では「期待値」以下だろう。こんなはずじゃない!と何度も首をかしげることだろう。スタジオではもっと深くできたのに・・・、スタジオではもっと集中力があったのに・・・、なぜ家ではできないんだろう・・・?云々。Well...Welcome to the real world! 真実の世界へようこそ!それが、本来の自分の練習なのだ。要はそれを認められるか否か、ってことだよ、ベイビー。

すなわち、自分をどこまで受容できるか、自分にどこまで規律を保てるか、そしてなにより、どれだけ自分が「この練習」を信じているのか、その向き合う心自体が試されるようなもので、嘘や誤魔化しができない世界だ。仮に取り繕うとしたら、それは自分自身に向かう冒涜のようなもので、せっかくヨガをやっているのに一通を逆行するような暴挙というか、ま、それはそれでアナーキーでカッコいいとは思いますけど。

んなわけで、こうしてオバサンは地下の穴倉で怪しく自己練習するのであるが、なんかもうそれは、アシュタンガヨガとはいいがたい代物で。元ハードコアなアシュタンギを自称していた超理想主義の私としては、いろんな壁がガラガラと崩れ始めた昨今を感慨深く、ただただ見つめるのみ。

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ポーズを増やせばよいという最近の風潮  

先生なんていいや、無理して帰依などせず、自分の練習をしよう。私はプラクティス自体を信じてくっ!

とかっこいい決意をし、5月半ばからヨガサークルのような某スタジオで練習を始めた。

そこで目のあたりにしたのは、アサナ合戦ゲームだった。地道に辛抱強く繰り返す練習で、少しずつ身体を心を開き、柔軟性と強靭さという土台を築き、上に乗っける基盤を作っていき、準備ができたら次へ進む・・・というプロセスを重視したアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムは、そこにはなかった。脆弱な基盤の上に次々と乗っけていく「新しいアサナ」という重荷。一歩一歩確実に、ゆっくりとすこしづつ、なんて悠長なこと言ってられないわよー、とばかりに、先へ先へとアサナを進めていく、もっともっとnever enoghの世界。

プライマリーができなくてもセカンドシリーズ、セカンドができなくてもサードシリーズ、むずかしいポーズはプロップ使ってモディフィケーションで流す・・・が当たり前の環境であっても、周囲に惑わされず自分の練習をしよう、とオバサンは決めていた。ここ1年ほど格闘しているマユラーサナの肝を習得するまでは、次のポーズに進んでも弱点の肩を痛めるだけだということは明らかだったし、「準備ができたら次のポーズ」というアシュタンガヨガのシステム自体を、どんな指導者よりも信頼していたから、「なんでそこで止まってるの?できなくたって、いいじゃん?」と当然のように言われたけど、きっぱりとNOと言えた。しかし、その時点で当然のごとく、アンタッチャブル(不可触民)の存在と成り果てるのだが。

来る日も来る日も同じ練習をする。指導されるわけでもなく、ポーズをもらうわけでもなく、アジャストされるでもなく、自分の練習を黙々と行うことで、自分の奥底から生まれてくる「強さ」を発見した。それは「自身」であり、「信頼」であり、「受容」でもあった。それまで、指導者の顔を伺うように、周囲から評価されるために、「他者の目を前提としたパフォーマンス」みたいな練習に終始してた自分が、ちょっとづつ素に戻っていくようで、なんだか楽しかった。

ところでハーフセカンドだけを1年もやっているとスタミナがなくなってくるのは確かで、なんと週に1回のプライマリーがキツくなってくる。それもなんだかなぁ・・・って感じなので、ハーフプライマリー+ハーフセカンドという、伝統が大好きな指導者が怒りそうな練習をするようになった。ポーズの進捗を第一目的にする練習と違って、この「ハーフプライマリー+ハーフセカンド」は非常にバランスがとれていて、健康な生活をするためのヨガとして大変素晴らしいです、大好きです。

同時にセカンドのポーズの精度をもう少し上げようと、特にカポタとカランダを、チョチョイとやって素通りするのをやめて、しっかりと向き合ってフォーカスすることにした。結果、カポタは自力でカカトをつかみ、カランダはちょっとチーティング入れれば自力でUPするようになった。カポタ3年目、カランダ2年目にして、いわゆるminimum standard(最低限の基準)を達成。どれだけアリエナイ~!と思ってたアサナであっても、不可能ではなくて、ただ時間がかかるだけのことなんだと、身をもって実感。「ポーズ習得3年説」断然支持しますよ(笑)

現在奮闘中のマユラーサナは、1年経っても、これまた面白いくらいできないんだけど、やるほどに自分の肉体と精神の奥深さが見えてくる。色んな指導者の色んなアドバイスを受けたけど、一番の先生は自分の経験だな、と思う。

確かに、どんどんポーズを進める練習もチャレンジングでいいかもしれない。そういう選択肢があってもいいと思う。でも私自身は、ゆっくり確実に歩を進めたい。歳だから肉体的な無理は避けたいという部分もあるけど、なによりも長く続けていきたい、というのが本音。全力疾走の短距離ランナーというよりは、臨機応変に状況を鑑みながらペース配分しつつ長い距離を走りたいな、と。

アシュタンガはその効用がパワフルだから、始めて直ぐはスゲー!とはまりやすい。でも反対に、突然パタリと止めてしまう人も多くて、熱しやすく冷めやすいヨガ・ナンバーワン(笑)。だからこそ、って気持ちもあるのかな。

昔ね、陰ヨガのTTでポール・グリレイ氏が言ったことが、最近頭をよぎるようになってきた。

ヨガを始めて最初の5年から10年は、急激な変化や進化にかなりインスパイヤされます。しかしその先10年20年ヨガを続けていったときに、同じようなインスパイヤを求めても、そこにはあなたを満足させるものはないでしょう。



はまりやすがゆえ、イケイケゴーゴーになりやすいゆえ、一般的なハタヨガの真逆に振り子が揺れらすいがゆえ、アシュタンガヨガはその実、ポーズがドーダ&アーダのハネムーン的時期を潜り抜けた後こそが大切というか、どれだけ長く続けていけられるかがキモなんじゃないか?、と。まるで結婚観を語るような自分に苦笑。

恋に落ちるのは簡単、結婚を人生のゴールにしても、その先は長い長い。恋愛→熱情→離婚を繰り返したって、それは延々と巡るサムサーラの輪から抜け出せない魂みたいだ。それが人間関係であれ、ヨガであれ、他のどのような人生の役割であれ、大切なのは「忍耐と勤勉さ」だと思います。そこをおざなりにしちゃって、やれ自由だ解放だ、ったって、それは単なるワガママでしかないじゃないかと。

ポーズを増やせばよいという最近の風潮にしたって、どんなに進んだってサードとまりでしょ?そこまで最短距離でたどり着いたところで、その先はどうするの?というのが、確信の部分というか、そこからヨガは始まるんじゃないの?

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見つからない探し物  

「アシュタンガはひとりの先生につくべきだ」

という思い込みで、自らを窮屈な状況に追い込んでた日々が、今年に入ってからしばらく続いてた。それは自分のココロの中にポカリと空いた穴を、ムリクリ埋めようとしてただけの、陳腐な足掻きみたいなものだったから、当然のごとく長続きはせず、5月半ばの奇しくもグルジの命日を境にパタリとスタジオから足が遠のいた。

5月18日の朝、いつもと同じように家を出た私の足が向かったのは、何故かダンさんがいた頃に通っていたスタジオだった。別に理由なんて、後からいくらでも付けられるけど、多分なにかをリセットしたい気持ちがどこかにあったのかもしれない。熱気の立ち込める久々のスタジオで、少しだけ厳かな気持ちで練習した。特にアジャストも受けず、自分の練習をただ行った。どのポーズがどうだとか、身体のどこそこがどうだとか、そういう枝葉の部分よりも、自身の奥底から沸きあがるような核心のようなもの、それを「吸って・吐いて」の呼吸に身体を乗せていく練習。グルジありがとう、私たちは幸せです。場所なんて、ほんとうはどこでも良かったのかもしれない。

運のよいことに私は、肉体的なアサナを介して、精神的な成長を促し、励まし力づけ育んでくれる素晴らしい先生に恵まれて、アシュタンガを練習してきた。まだ幼いピヨピヨのフラジャイルな植物が育つには、水も温度もそうだけど、なにより風よけしてくれる覆いが、ある程度成長するまでの期間必要なように、ヨガの修行においても、独りで育っていけるまでの間、守り育んでくれる環境が大切だと、ヴィヴェさんが書いていたが、私のヨガ修行ピヨピヨ期における、身体のウダウダはもちろんのこと、心のウダウダまでをも引き受け、長く険しい道程のみちしるべとなってくれたダンさんの存在は、確かに大きかった。

恥ずかしいことに、ダンさんが去り、そこから巣立ったはずの自分が、まだまだ全然ちっとも「そこ」を卒業できていないのに気づいたのは、つい最近のこと。自分の練習が低迷してきて、それはポーズの進捗もそうだけど、プラクティスとの向き合い方そのものにおいて「あれ?なにやってるんだ、私?」と愕然することが多々でてきた。環境や生活の変化を言い訳に、師事する指導者を3人も転々とした。練習をしては怪我をし、回復したかと思えば、また怪我や体調を壊してばかりいた。腰をすえて真摯に練習に取り組んだり、指導者との信頼関係を育むコミットすらできない自分がいた。次第に責任転嫁をし始め、アシュタンガを教える人々に幻滅し、アシュタンガを行う人々にうんざりし、アシュタンガヨガ自体に嫌気がさしてきた。

この先生のアジャストが上手いとか、あの先生のデモがスゴイとか、誰それはアサナを離れたヨガ的指導が素晴らしいとか、ナントカさんは優しくて親身になってくれるとか、あそこは生徒がガツガツしてるとか、こっちのスタジオは穏やかな雰囲気の人が集まるとか、どこそこはポーズをガンガンくれるとか、あそこの先生は超厳しいとか、私達アシュタンギは指導者とスタジオと、そこに集まる生徒さんたちのジャッジに余念がない。結局は自分の練習を、与えられた状況と環境の範囲内で、いかに精一杯やるか、つまりその行いをめぐる「人生のカルマヨガ」に他ならないはずなのに、心のさざ波で忙しい私たちのエゴは、ついつい自分の外側に答えを求めたり、期待したり、果てには敵を作ったりしてしまう。

私がここ1年間近く、ヨガジプシーのごとく、アチコチを転々とすることに忙しくして、自分の練習自体を二の次にしてしまったのは、つまりそういうことだった。私は指導者とスタジオと、そこに集まる生徒さんたちのジャッジに余念がなく、自分の外側に答えを求め、期待し、非難し、拒絶し、結果的に敵を作り続けていただけの大ばか者だ。私は誰にも心を開いていない。かたくなに心をきゅっと一文字に結んで、自分の内側へ深く潜っていくことで、周囲を拒絶している。開いた心が傷つくのが怖い、信じたものが消えていってしまうのが怖い、愛したものを失うことが怖い・・・そんな簡単なもので、どうやら私はできているらしい。

あれ?私がいままでやってきたのは、なんだったのかな?アシュタンガー!と勢いだけはいいけど、自分の練習ではなくて、先生ありきの練習でしかなかったの?その答えを知るのが怖くて、ほんとうの自分を見るのが怖くて、誤魔化し誤魔化しやるプラクティスなんて、本末転倒というか、そのベールを剥がすこと自体がプラクティスなはずなのに、嗚呼・・・!と、頭で考えすぎる人(→私)特有のグタグタでグチャっとしたまま、日々は過ぎ、気がついたら「アシュタンガなんて、やーめた!」になっていた。

奇しくもそんなおり、フィンランドへ越していったダンさんから便りが届いた。

厳しく寒いこの土地の気候により固く閉じてしまった身体で、ハーフプライマリーですら辛い日々が3ヶ月以上続きましたが、ようやく最近春が来て、花が咲き始め、練習も少しずつサードシリーズへ戻りつつあります。


そんな淡々としたメールをもらった。マイナス何十度という常軌を逸した環境で、ガチガチに固まった身体を抱えて、毎日黙々とできる範囲の練習を行う。誰に何を求めるでもなく、「ただやる」こと自体に意義を見出すかのように、現状を認め受け入れ、謙虚に誠意を尽くす姿が目に浮かんだ。そういやダンさんって、昔からそんな感じだったなぁ、と思ったら、なんでか、涙がボロボロ出てきた。同時に、ちょっとでも思い通りにならないとブイブイ文句たれてはダダッコしている自分が、恥ずかしくて仕方なかった。

もう遠回りはいいや、とりあえず顔をあげて歩こう、先生なんて無理に見つけなくてもいいから、まずは自分の練習をしよう、それがアシュタンガであれ、なんであれ。

と、久方にポジティブな決意を新たにしながら、ふとここ1年の自分を振り返って思った。

あら、私の探し物って、いったいなんだったんだろう?
(いつだってここにあったじゃないか)


6月のアタマくらいのことである。


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別にそれはヨガだけに限ったことじゃなくて  

生きてくってこと自体がそういうもので





突き進む勇気
留まる勇気
後退する勇気

無謀や諦念や自棄を超えての
信頼と受容

否定や批判や絶望を抜けての
肯定と抱擁

それなくして歩む道に
光はさすのかな?




いつでもどこでも
そこで立ち止まって

やさしい気持ちで
自分をとりまくすべてものを
あたたかく抱擁するような

そういう生き方を
たいせつにしてみる





足元の大地は
それがコンクリートだろうと
悪臭漂うゴミ溜めだろうと
ちゃんと私たちを支えて
つなぎとめてくれてる

子供の頃の邪心なき瞳で見つめた
木漏れ日のようなあのキラキラは
今だってあちこちにあふれてる

それを忘れちゃうのも
それを見失うのも
じぶんしだい






やっと生活が落ち着きはじめた

日々のいとなみは平穏に
同じことを何度も繰り返していく

だけど1度たりとも
「まったくおなじ」ものなどなくて

たとえばにおいの色彩とか
たとえば湿気の音階とか

その差異を機微を捉えるのは
短い人生のちょっとしたご褒美

淡々と繰り返す日々の行いに
自分をすっぽりと落とし込んで
行為そのものに自分がなる

それは床を踏みしめる
たった一歩そのもので
世界のすべてを自身で体現するような
大いなるアドベンチャー



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いわゆるヒザベンド  

いわゆるヒザベンド



どひゃー

こんなもん100回やったって
ちっともエラくない

とりあえず落ちて
とりあえず戻ってくりゃー
いーのだ!の典型

私も昔やってたから
よく分かる

勢いで跳ね返ってるだけの
スプリングワーク

あのー
ドロップバックは
バックベンドなんですけど

後屈の柔軟性を少しずつ深めて
脚の力を地道に築き上げて
バランスを生み出していく

アシュタンガビンヤサヨガという
身体遊戯の基本のキ
土台作りにあたる大切な部分
だと思うんですが

こういう先生でも
けっこうおざなりなのね

とりあえずの
やっつけしごとというか

それって単なる
パフォーマンスじゃん?

と突っ込みたいけど
ま、べつにいいや

気が済むまで
そこにずっといてちょうだい

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ああ麗しのレイチェルさま・・・  

ああ麗しのレイチェルさま・・・





全ての動きがエクスタシー
あのタトゥーだけでもゾクゾク

ベリーダンスは
肉感的な女体が妙に挑発的で
大抵お腹イッパイになるんだけど

レイチェル様のトライバル
ああああああああ

引き算の美学があるというか
クールでカッチョよすぎ

なんか無性に
踏みつけられたい気分
(意味不明)



しかしここまで身体の細部を
意識的に分割してワークするなんて

身体フェチのワタシとしては
なんかもう、ワナワナしてくる

やってみたーい
お腹ワーク
臀部ワーク
肩甲骨ワーク

なんて思ってたら
こんなの見つけた





うがー!
これはマジなの?
パロディなの?
わかんないー

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なにもそこまでしなくとも・・・  

なにもそこまでしなくとも・・・





こんな余分なコトやってたら
伝統を重んじる指導者に叱られそうだ

でもここまでハンドスタンドのベースが築けると
上になんぼでも乗っけていけるというか
基本は土台とバランスなんだなー、と

それにしても
このBGMは確信犯的にダサい

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