HEADING NOWHERE

三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

練習再開  

安曇野から戻って、スタジオ練習を再開した。

毎日同じ時間に、同じ場所で、同じ動きの練習をする。繰り返し繰り返し幾重もの年輪を刻むように繰り返す、その単純な、シンプルな行為。余計なものをどんどん省いて、最低限必要なものだけ残して。だからこそ見えてくる変化と広がり。この世の最後の一呼吸の中に、一番大切なものがあるのかな、とか思いつつ、呼吸に深く深く潜り込んでいく。



moth.jpg




1週間のあいだ毎日変わらぬ同じ練習をしたのは久しぶりのこと。

今日はここ、明日はあすこ・・・と毎回違う環境で行う練習は、心が忙しくなる。刺激的ではあるが、不必要に神経を尖らしてしまう。「今日はこの指導者だから、ここをこうしなきゃ」とか、「今日は自宅だからここをこうしちゃおう」とか、いらないもので自分が膨れ上がってくる。結局毎日違ったメニューで、身体も心もその都度びっくりして、川面のさざ波は立ちっぱなし。



wood.jpg




だけど、人々の中にいると、なんでこんなに練習に集中できるのだろう?

自宅では保てない規律のなせる業なのか、いわゆる「いいプラナもらっちゃたわー」なのか。たぶん、どっちも。満員電車の中でますます冴え渡る集中状態に似ているような、大自然の中でひとりぽつんといるよりも、ずっと孤立感がある感じで。共同体の中での、守られた場所での、安心感。私達は避難場所へ駆け込む難民のように、毎朝都会のスタジオへ足を運んでいるのだろうか?



into the sky




こないだ、あるひとつのものを手放してみた

自分の愛着が執着にしか見えなくなったとき、思い切ってサヨナラしてみた。ごめんなさいの気持ちと、残念な気持ちと、沢山の後悔に押しつぶされそうになった。だけど、ぎゅっと握り締めたこの手を開いて、掌を空けておかないと、新しいものはやってこない。流れを滞らせず、風通しよく、来るものを、去るものを、潔く通過させてみる。心が軽くなる、身体も軽くなる。



I see Things You Dont See




そういえばサマスティティヒ

ポーズが終わってサマスティティヒに戻るときに、いつも胸の前で両手を合掌していた。ちょっぴり厳かに拝むような気持ちで目を閉じて。だけど本来は、両手を体側に降ろした「気をつけ!」の姿勢なんだと、こないだ初めて知った。拝まず、目を閉じず。ますぐ正面を見て、ピシッと「気をつけ」、で、サマスティティヒ。なにもかもを一旦チャラにして、リセットして。ここからもういっかい、新しい自分で、ピカピカに生まれ変わった自分で、サマスティティヒ。





スポンサーサイト

category: 未分類

tb: 0   cm: 2

安曇野でヨガ  

友人がオーガナイズするバリー先生のワークショップへ通訳として参加。


ChikenShop.jpg




安曇野というシャンティな土地、地方でコツコツと宅練に励む人々、不思議な魅力のバリー先生、チーム逗子メンバーの飛び入り参加、前からやりたかったヨガ通訳、「新そばが美味しい季節だよ~」の一言、心の盟友K子オーガナイザー・・・これだけインスパイヤされる要因が揃ったら、行かないわけにはいかないでしょう(笑)の3日間。

主催者さん先生と何人かの生徒さんとで、山の中のコテージに泊まり、気分はもう修学旅行。一晩中ワイワイとお喋りは尽きず、毎日ゲラゲラと笑いは止まず。お蕎麦は美味しいし、温泉は気持ちよい。だけど、そんな中にこそ心の奥底に触れるアレコレが沢山あるもので、ワークショップや練習を離れたところでも、沢山の元気玉をもらった気分。

永年習ってた先生が去ったショックで練習場を自ら失うようなことして、ワケわかんないものに屈服した練習をしたり、自宅ではまるきり規律を欠いたダラダラの怠け者に成り下がり、ついでに仕事は全然見つからず、私は一体なにやってるんだ?と、モワモワ悶々とした日々を送ること数ヶ月、なんだかそれに一区切りがついた感じ。

3日間のワークショップを通して、バリー先生を、参加者の方々を、ただただずっと見てた。すべては流れるように変化していくのだなぁ、と印象深かった。直接は触れず、深くは関わらず、個人的なものを持ち込まず、淡々と傍観者のようにそこにいて、通訳という言葉の媒介を勤めた。見るものが、見られるものと混同しないように、すべてのハプニングを私自身と混同しないように。

バリー先生が発する言葉を介して、彼の言霊を、彼の慈愛を、彼の情熱を、彼の師を、ヨガの真髄を、私という媒介者を通して、言葉という乗り物を使って、この地で黙々と自己練習に励む人々へ届ける、橋渡しをする。その行為は幾重ものフィルターがかかり、霞んだり誇張されたり、だけど本当の大事な部分、本質のシンプルさは、そこにいつまでも残る。

どれだけの言葉を尽くしても言い表せない、だけど瞳で心で感触で直感で通じ合うるなにか、それこそが、私達の奥底でひっそりと眠る真珠貝のような真実で、「あなたにとってのヨガは?」の答えは、きっとそこにあるんだろう。


suptaK3.jpg



通訳メモ:


アサナはヨガのほんの一部
マットの上で練習するのは1日のほんの一部
だけどそれだけに終わらせるのではなく
アサナを離れた部分へ
マットを離れた部分へ
私達の日々の生活へ、人生へ
あなたのヨガを広げていけたらなら
それはとても素晴らしいこと

怪我や病気でアサナの練習ができないからと
ヨガそもののすべてを止めてしまうのは極端すぎませんか?
行為のヨガもあります、献身のヨガもあります、知識のヨガもあります
チャンティングすることも、瞑想することも、プラナヤマもヨガの一部です



けれど私達はアサナという最も身近なツールを使い
マットの上で練習を続けています
これが私達のプラクティスです



至高の存在や無限を集中の対象とするには広大すぎるから
インドの人々は様々な神々の形にそれを具現化し
瞑想や崇拝の対象としてきました。

私達もヨガという広大なシステムのごく一部の
アサナというツールを使って
呼吸とドリスティに心を集中させ
肉体と精神と魂の浄化を日々行っています




ポーズという身体の外側で起こっていること
それは他者の目にも明らかです

ポーズをとる身体の内側で起こっていること
それは他者の目には見えない部分です

あなたがヨガ=アサナと捉えるのか
それともヨガ=スピリチュアルな成長と捉えるのか
それによって大切なものは何なのかが変わるかも知れません



他者の目の介入しない自宅での練習
宅練の大変さ、しんどさ、ダメダメな自分を目の当たりにする現実
マットにすら立てない日々、立てたとしても気が散るばかり
集中もできなきゃ、ポーズも深まらない、嘆息、焦心

だけどそれを乗り越えようと檄を飛ばすより
むしろ、それを受け入れる勇気を持つ
しかし決して諦めたり逃げたりせずに

どんな状況であっても
それがプラクティスなんだと



八支則は八つの枝と捉えることもあるし
八つの梯子階梯と捉えることもある。
ハつのステップを一歩ずつ確実に登っていくのか
八つの方向へ同時に枝を伸ばし広げていくのか
どちらもあり、どちらもありうる



ゴールオリエンテッド、すなわち目標達成に囚われすぎて
そこへ至るプロセスそのものを楽しめなかったら
それはヨガの意義を履き違えてしまっている

しかしそれがアサナの完成形であれば
安易にモディフィケーションポーズに留まらず
伝統的な完成形を「目指す」姿勢は重要
それが「できる・できない」は問題じゃなく
そこへ向かっていくこと自体がプラクティス



それこそがすべてであり
それはほんの一部でしかない



mysoreclass03.jpg




地元の宅練アシュタンギの方々の姿は、やさしく穏やかで、内面から現る美しさがある。アサナという表面上の進化は確かにゆっくりだろう、しかしその内側は成熟し、とてもバランスがとれている。

「冬の間の練習は辛いんですよ~」
と笑いながら語る彼等彼女等の瞳は、どっしりと落ち着いた柔らかさがある。

「それでもね・・・」と彼等彼女等は続ける。

「そんな風に寒くて、身体は硬くて伸びなくて、冬眠したように停滞した練習を、それでもコツコツと続けていると、春が来たときにね、芽が出てくるのが判るんですよ」

うわ、たまらないなぁ、これ。
私は自分が恥ずかしいや。

こんなに恵まれた環境にいながら、ダダッコのようにブーブー文句たれて、自分の練習ひとつままならないなんて、なにやってんだ私?・・・超反省、でも目が覚めた。



たったの3日間だったけれど、いい意味で、良いタイミングでリセット。温泉にいっぱい浸かったからかもしれないけど、ワーワーいっぱいおしゃべりしたからかもしれないけど、悶々とした胸のつかえが抜けていったみたい。

主催のK子さん、お疲れさま、こんな機会を作ってくれてありがとう。バリー先生、なんだか色々と見えてきました、ありがとう。安曇野のアシュタンギのみなさん、沢山学ばせていただきました、ありがとう。これからも練習、続けていきましょう。



category: 未分類

tb: 0   cm: 2

Olafur Arnalds "Ljosio"  



category: 未分類

tb: 0   cm: 0

自宅でフルプライマリー  



週に1度のプライマリーの日。いつもは九段下のスタジオで練習するのだが、今朝は所用により自宅にて。

自宅だとダレちゃって、集中力を持続するのが目下の課題!な、はずなのに、今朝のフルプライマリーは意外とサクサクと、ちっとも途切れることなく、気持ちよく練習ができてビックリ。あれれ?これなら問題ないじゃん?

そういえば自宅で練習を始めたのは、既にスプリットしてセカンドだけを単独で行うようになってから。慣れないセカンド、むづかしいセカンド、できないセカンド、嫌いなセカンド、ちっとも楽しくないセカンド・・・それを規律を欠いた環境で練習しようとしても、そりゃ無理がある。プライマリーで身体をウォームアップしてからやるわけではないので、まだまだ硬い身体でガツンとセカンドへ挑戦していくには、ある程度の気合も必要だし。当然全然できないから少しでも向上しなきゃー、と焦る気持ちで更にガジガになる悪循環。これじゃぁ、へこたれても仕方ないのかな?

なんだかんだいってもプライマリーは、かれこれ4年以上毎日、それこそ1000回以上は練習してきている。できないことがイッパイあっても、プライマリーシリーズは身体に沁み込んでいる。だから、別に環境に惑わされることなく、スタジオだろうと自宅だろうと、それなりに「わたしのプライマリー」が行えるのかもしれない。別段何かを考えることもなく、流れるように、ただ身体を動かしていくことができる。うーん、自宅での練習はプライマリーオンリーにしていきたいかも^^

そんで、ふと思った。
つまりは、自分が何を必要としているか、なのかな、って。


white03.jpg




太陽礼拝をやっていくうちに、今日の私は何が必要?なのかが見えてくる。気持ちよく瞑想的に練習をしたかったらプライマリー。ちょっとチャレンジングな気分だったらセカンドだけ。単に座りたいだけなら瞑想して、エネルギー整えるのにプラナヤマ加えてみたり。バックベンドにフォーカスしたかったら、まったく別のシーケンスを練習したり。反対に両極のバランスを取るように、怠惰でタマシックな自分を発見したら陰ヨガなどで甘やかさずに、あえてセカンドでガツンと。ハイパーテンションで落ち着きのない状態だったら、それこそ前屈シリーズと陰ヨガで自分を中庸へもってくる。自宅の間マットの上で私は自由、だからこそ責任をもつ。ヨガは自分を知るツールであっていいはず。自分を誤魔化すツールに成り果てたら、本末転倒だ。

「エーン、これじゃぁ、アシュタンガの練習にならないよー」と愚痴るのはお門違いもいいところ。自宅で”アシュタンガヨガの決められた練習方法”ができないのなら、なぜできないのかを探求するよいチャンス。そして、”アシュタンガの決められた練習方法”をやりたい気持ちはどこからやってくるのか、できない自分はなにに起因するのか、そもそもやらなきゃならない理由は自分の内から沸き起こるのか、それとも外部からの条件付けでしかないのか、そしてそれをジャッジする私は一体なにものなのか?を知る、ということだよベイビー。


category: 未分類

tb: 0   cm: 0

おかえりなさい  



こないだ行った都内の朝練スタジオ。なんともピースフルな雰囲気が心地よく、東京での用事ついでに、ついつい惹きつけられるように通い始めた。とはいえ毎日なんてとても無理だから、週に1回か、できたら2回くらいは行けるといいな、と。

手助けはするけど、これは、あなたの練習、と、静かに見守られる感じがよい。練習生がどんな形であれ、どんなやり方であれ、千差万別の過程を歩むのを、安易にジャッジせず、むやみにポリシーを押し付けたりせず、適度な節度をもって見守るのは、多分ヨガ自体にたいする深い信頼があるからなんだろうな、と思った。

ときおり「自分」の力を過信する指導者に辟易することがある。「教える”わたし”」が主格の世界に留まり、”わたし”の価値観を「シェアする」とか「伝える」とか、単に言葉を変えただけの押し売り状態。ヨガ自体のパワーを指導者自身の力量だと履き違えてしまうのは、自身のなさの現われというよりはむしろ、単純にヨガへの帰依が脆弱なためではないだろうか。

いずれにせよ、宅練を始めてからの自分の変化と、スタジオ練習での違和感とで、ちょっとグチャっとなってた部分が、上手い塩梅に落ち着くような、中庸どころのスペースを見つけた気分。インドを放浪中、機会があるたびに寺院やアシュラムにフラリと入り、ただ座って瞑想したものだ。あの信仰心と静けさと落ち着きの空間は、なんとも居心地がよくて、1日中そこにいることも多々あった。それとおんなじ匂いがするなぁ、と。


ramakrishna.jpg




宅練の罠として、ポーズを思いっきり深めたり、次のポーズをほしがったり、というモチベーションが一気に萎えてくる、というのがある。それはもう面白いくらいで。ポーズをぐぐーっと深めるアジャストもなれけば、次のポーズを教えてくれる指導者もいないわけだから。「ただ、いまの自分ができることを、やる」それだけで精一杯、それだけで十分満足、いや時にはそれすらも困難であったりもするから、結構大変。

だから、反対にスタジオに行くと、普段得られないアジャストや新しいポーズへの渇望が沸々と生まれてきて、そんな自分自身に「ええ?マジ?家でやってるときとワタシ全然違うじゃん!」と驚くのだ。そして、そのギャップというか、自分に対する違和感が、このところずっと不快で仕方なかった。

だけど、この新しいスタジオで練習をしたとき、不思議とそういう「自分の中のギャップ」が生じなかった。別段すごいアジャストを受けるわけでもなし、新しいポーズをもらうでもなし。淡々と、いまの自分ができることを、やるだけ。家で練習しているときと同じように、「瞬間を感じて、ここに留まる」その安らぎに包まれる。なにかに「おかえりなさい」と言われてるような、「ここにいていいよ」と言われてるような、そんな安堵感に、ついつい心が緩んだ。

これまで毎日同じスタジオで、毎日同じ環境で練習していたときには、あんまり見えなかった自分の本質が、練習場所が変わるだけで、否応なしに突きつけられるようになった。結果、自宅での練習も試練だし、スタジオへ行けばいったで別の試練だし、正直ウンザリしてたところ。それはそれで、今の自分が通る過程でしかないから、このまま歩を進めてはいくけど。ちょっとした息抜きのようなリセットの機会として、この新しいスタジオでの練習は、今後のルーティンの中にぜひとも組み込みたいな、と思った次第。



category: 未分類

tb: 0   cm: 3

台風一過  


窓の外では、台風が刻一刻と景色を変えていく、その様子を感じながら、自宅の居間で練習。

始めた頃は上陸直前の不穏な雲行きがオドロオドロしく、練習しているうちにゴーゴーと雨風が凄まじくなってきて、練習が終わると強風に窓がガタガタ揺れながらも雲の切れ間から神々しい太陽の光が洩れてきて、その振れ幅の大きさに驚く。


sunlight.jpg




スリアとスタンディングだけで十分満足、って感じだったけど、とりあえずハーフプライマリ&カポタサナまでサクっとやって、バックベンド。ドロップバックはやらず、じっくりと味わうようにフィニッシングへ。

不思議なことに自宅で練習すると、「ここで充分、おなかいっぱい」のポイントが早くやってくる。そしてフィニッシングで「ありがとうございました」の気持ちが自然とあふれてくる。

スタジオでの練習は、ヤク中みたいに「もっと、もっと」の渇望が止むことがなかった。まだ足りない、何かが満たされない・・・と、本質を見極めずにアサナという肉体遊戯で、とりあえず穴ぼこを埋めようとしてたのかもしれない。こうなりたい、ああなりたい、こうできるようになりたい、ああできるようになりたい・・・のタイタイ尽くしで、「先へ、先へ」とアゴ突き出して疾走する姿は、今から思うと哀れな餓鬼みたいなもので。飢えと乾きに囚われて、足りることを知らず、決して満足せず、「いまのじぶん」が既に奇跡のように有難いものなんだと、気づく余裕すら失っていた。

窓の外の荒れ模様は、すさまじく、うねるように、強さと撓みが交互に繰り返されていた。私は窓のコチラ側でそれをただ観察する。はて、私の心と身体の荒れ模様は、果たしておんなじように観照されているのか否か?


category: 未分類

tb: 0   cm: 2

nothing matters  

都内のとあるスタジオへ練習しにいった。とても静かで穏やかな空間だった。





初めての場所で緊張したけれど、気がついたら自分の深い呼吸に癒されるように、ポーズにビンヤサにシーケンスにどんどんと沈み込んでいった。気持ちよかった。

いつもはドキドキと緊張してしまう苦手ポーズの時でも、なんだか落ち着いていられる安堵感があった。不思議だった。

中途半端なポーズはイッパイあるけれど、そんなに頑張らなくてもいいかな、と思ったり。できてるつもりのポーズも結構あるけど、そういうのに限って逐一細かく指摘されて、ハッとしたり。

まだまだ未完成のカランダで終了して、ドロップバック。ハンドスタンド~ドロップオーバーは別にいいや、と省略。アシストしてもらったドロップバックから戻ってきたときに、あれ?と思った。

パチモッタナーサナの「むぎゅー」で、なんでか胸が熱くなった。ついでに涙も出た。呼吸が詰まって仕方なかった。「もいっかい」と呼吸を催促されて、フーッっと深呼吸すると、なにかが抜けてった。なんかよくわかんないけど、すっきりした。

フィニッシングでもグスグスしながらも、だけど妙にすがすがしい感じ。肩の荷降ろしていいよ、と誰かに言われた気がした。あ、そうか、と思った。


sungoesdown.jpg




あ、そっか、私がどこでどんな練習をしようと、べつにいいんだ。私がマットの上で呼吸に動きを乗せていく限り、おうちでやろうがスタジオでやろうが、そこがどこであれ、グダグダでもヘナヘナでも、どんな質の練習をしようとも、全部オッケー Nothing matters 結構単純なことではあるが、なかなか気づかないものだ。



category: 未分類

tb: 0   cm: 0

焦り、ゆらぎ  

毎日通っていたスタジオから離れて1ヵ月半。自宅もしくは地元でのセルフプラクティスがメインとなり、スタジオへは時たま回数券ビジターとして顔を出す程度。

「アシュタンガヨガの基本はセルフプラクティス」

そんな決まり文句を何度も繰り返しては、自分の拠り所にしている。だけど正直なところ、セルフプラクティスではくじけそうになることが多い。不安と恐怖でフリークアウトすることも多々ある。

足元がおぼつかない、確証がもてない、自分の舵取りが間違っているんじゃないか・・・まるで森の中のハイキングでひとり迷子になった気分。木々のざわめきや木漏れ日のキラキラ、土の匂い、苔の匂い、鳥のさえずり、花々の彩り・・・みんなとおしゃべりしながらじゃないから、うんと堪能できる森の中の世界がそこにはあるのに。アサナの深さや心身の微細な変化、エネルギーの流れ、呼吸の質、ほどけていく結び目・・・他の生徒さんや先生の目を気にしなくていいから、うんと堪能できるプラクティスの醍醐味がそこにはあるのに。なんでかな、まだまだ堂々と独り立ちできずに、ぐらんぐらんと揺れてる自分がハッキリわかる。自分の基盤がこんなにも脆弱だったのかと苦笑しきり。


greenpurple.jpg




「プラクティスはパフォーマンスではない」

改めて自分を説得するように、そう思ってみる。黙々とただ練習するために、そう思ってみる。「できる」も「できない」も、「深い」も「浅い」も、「強い」も「弱い」も、「重い」も「軽い」も、なんら意味をもたないことに気づく。そんな二元論で単純にジャッジされるような、底の浅いもんじゃないってのは身に沁みてる。現在の自分自身以上のものは決してそこには生起しない。なにかしらの進化も後退も、それこそが現在の自分自身。


heading NowHere


前進するために向上するためにアサナと取り組むのではなく、現在の自分自身を受け入れるためのツールとしてのアサナ。逃げたり幻影を追ったり目隠ししたり否定したり、いとも簡単に楽観的希望を掲げることで現状から逃げたり、そういう寄り道をイッパイした挙句に「私はこういうものでしかないのだ」と気づき、ハッとして、潔く認め、すべてをチャラにして、ただ受容する、そういうためのものであると、アタマではよくわかってる。しかし誠実にそれを受け入れるのは、ちっともたやすいことじゃない。それが煩悩、執着、自分の心の奥底に潜む愚かな部分。


知らずと自分はずっとスタジオで、アシュタンガヨガのプラクティスと銘打って、単なるパフォーマンスをしていたんだなぁ、と気づいたのはここ最近。どんなに集中しようと、外部を意識するマインドがそこにはいつもあった。では、スタジオを離れたいま私は、ここでなにをやっているんだろう?それまで無意識のうちに外部に向けていたマインドが、思いっきり自分自身へと向かってくる。こう見られたいとか、そう見られたくないとか、誰それがどんなやり方をしているとか、それを安易にジャッジする自分とか、誰それがどこまでポーズが進んだとか、それと比較して自分はアーダコーダとか、そういうツマンナイことで心を砕く必要のない分、自分の内へ内へと潜水していくみたい。アクアラングの呼吸音を背景に、静寂と薄暗闇にくるまれて、どこまでも深く、深く。


pink.jpg




さて、あなたがやっているのはアサナ獲得ゲームですか?

以前通ってたスタジオへ週1くらいで練習にいく。行くたびに生徒さんたちの進化にビックリする。毎日毎日しっかりとスタジオへ通い、他者の存在を意識し、高いモチベーションと、適切な補助アジャストやアドバイス、そしてなによりも「規律」をもって練習する者と、ただ自分自身と向き合うだけの自己練習をする者とでは、「アサナ」という肉体的な進化はまったく劇的に異なるのだな、と痛感する。私が未だに「カランダから上がれない~」なんてヘロヘロしているうちに、スタジオで練習を続けている人たちはドンドンと先にポーズを進めていってる。単純な[アサナの進化」を求めるのなら、スタジオへ通ったほうがずっと効率がいい。そういう比較をしている自分も愚かだが(笑)、でも「わたしは、もうここには属さないんだわ」という感は否めず、何故かスタジオに行くたびに心を一文字に結んでしまう。そして問うのだ、「さて、あなたがやっているのはアサナ獲得ゲームですか?」って。


アシュタンガビンヤサヨガのシステムは1st→2nd→3rdと一直線に梯子が上に伸びていくが、実際のプラクティスは決してそんなリニア的なものじゃない。紆余曲折寄り道戻り道イッパイしながら、その梯子をチマチマ上ったり下りたりの繰り返し。ミクロな視点でこだわっていくのか、マクロな視点で全体を見渡すのか、眼鏡を変えるだけで全てが違った世界となる。そういった意味で私の練習は、ここにきて、また新しく眼鏡を変えたみたいに、まだまだシックリとせず、もんどりうったり、グラグラにぶれまくっている模様。そのゆらぎこそが醍醐味なんだろうけれど。なんだか、あんまり居心地のよいもんじゃない。(sigh)









category: 未分類

tb: 0   cm: 0

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。