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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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女性の身体の静かな強さ byキノ・マクレガー  

以前、とはいってもかれこれ1年前、「決して腕力ヨガでなないのだ」と題してキノ・マクレガーのエッセイを紹介したことがある。

簡単に要約すれば、「女性がアシュタンガをやるんだったら、バリバリに男性を模倣するんじゃなくって、自分の中の女性性を受容し、内から現る優美さとパワーを活かしていきましょ」って、最近のケン・ハラクマ氏が言いそうなことなんだけど。

私自身カランダを練習し始めてから、男性的なアプローチと自分自身との決定的な差に直面しており、改めて読み返したら結構たくさんのヒントが見つかった。せっかくなので、このブログを読んでくださっている方々、特に女性陣にぜひとも読んでいただきたく、簡単に日本語訳載せます。興味のあるかたはぜひどうぞ。素人の意訳なので間違いなどありましたらご指摘ください。日本語訳の引用・転記は原文もしくはリンクを貼ってご自由に。


原文はコチラ
http://www.ashtanga.com/html/macgregor2.html


kinoMcgr.jpg




女性の身体の静かな強さ byキノ・マクレガー

合衆国の大統領選において史上初めて有力な女性候補者が出現したこの年、ひとつの疑問が全ての女性の喉元に出かかった。強い女性の定義とは、さて一体なにか?女性リーダーとは、つまり男性社会のルールを習得した者であるのか?それとも、女性がパワーを手にするときに現る、なにか別の本質とやらがあるのだろうか?

政治的観点から捉える性差問題からは少し離れて、たとえばヨガの世界でもまた、男女差についての深い思い込みが時に存在することがある。男性と女性の可能性に関する近代の教義は、すべてのヨガ実践者が、男性の肉体と女性の肉体では何が可能なのかを信じ込ませることに一役買っている。もしあなたが女性ならば、女性的なお尻を空中に浮かせるには、自分は間違った体型、サイズ、体重、性別なのではないか?と思い、柔軟である自分を辞めようと思ってしまうかもしれない。しかし、こういった考え方は、双方の性の真実のパワーを過小評価してしまう。

ヨガにおいては、全ての男性はまるで無重力のように身体を持ち上げることが苦もなくでき、全ての女性は柔軟なポーズにあたかも蛇のように難なく入り込める、といった不公平な想定がなされることがある。指導者や生徒、そして伝統における考え方の中には、非常に伝統的な男女の役割を永存させがちであるが、ヨガの実践者の現実は、また違ったストーリーを伝えてくれる。実際には、非常に柔軟であるがお尻を持ち上げることのできない男性もいるし、カラダは板のように硬いがハンドスタンドで微動だにせずバランスをキープできる女性もいる。ヨガの素晴らしい学びのひとつには、ここには世界的な標準となる肉体などなく、全ての身体、性別、人種そして年齢において、太古から伝わる修行法を習得し、そして恩恵を受けることができる、ということである。

とはいっても、もし貴方が女性なら、DVDでデヴィッド・スェンソンやリチャード・フリーマン、そしてシャラートといったヨガマスター達の華奢で力強い姿を見ては、ついつい自分を過小評価してしまうだろう。貴方の出産という役割に備えた女性らしいお尻や柔らかい曲線は、彼らヨガマスター達の筋っぽい脚とは、まったく別ものなのだ。ヨガにおいて女性もまた強くなれるという証拠を見出したかったら、女性性の本質を深く掘り下げる必用があるだろう。無重力な離れ業をやってのける女性や、政治的な成功を収める女性を見るたびに、彼女らは男性に支配された世界でぬきんでる為に、そのタフさを手に入れるのに多大な代償を払っているかのように映る。力を持った女性は、柔らかさ、オープンさ、豊な感情、甘さといった女性特有の特性を押し殺し、常にその荒さを怖がられている。「ビッチ」という言葉は、女性の存在に適用するときは常に「強さ」とほとんど見分けがつかない。何人かの人々はアナ・フォレストですら恐れるし、ヒラリークリントンに至っては「アイス・クイーン」と呼ばれる始末だ。

男性社会での成功の為に、女性性の精髄である特性を引き渡すことは、女性の本質の価値をないがしろにしている、ということだ。性別による特性の複雑さは相当なものであり、一体なにが男性女性それぞれの本質を生み出しているのか、答えを出すのは大変難しい。私個人的なヨガへの道程は、大変難しい疑問の答えを見出す旅となった。女性には男性とは違った、しかし決して男性に劣らない、自然な肉体的強さがあるのかどうか。私は10年前に「柔らかいだけで力のない」という典型的な女性としてヨガを始めた。ミステリアスなリフトアップやアームバランス、ハンドスタンド、ビンヤサなどなどに畏敬の念を抱き、自分の余分なお肉のついたお尻まわりや、短い腕や、小さな体つきを批判的に見ては、簡単にできないポーズや動きは自分の体型や性別のせいだと非難していた。西洋での男性インストラクターは、良い意味で、女性には男性のような強さは期待していないよ、といわんばかりに私をスルーしてくれた。科学的根拠を基盤とした肉体の動的運動の解剖学では、女性は重心が男性より低く位置しているため、動的作用上異なった原理があり、結果として女性は肉体的に劣った性的特性を持つ、と述べられている。科学、ステレオタイプ、そして先入観は私に人工的な限界を作り出すところだったが、しかし、私はさらにそこから深く探求していった。

私の師である92歳になるパタビ・ジョイス氏は、インドのマイソールでのコンファレンスで典型的なブロークン・イングリッシュでこう言った。「ヨガは変化している。現在では、一部の女性はとても強くなり、正しいアサナを行うことができる。以前は、それは可能ではなかったが、今は、それが可能だ。すべての女性は、全てのアサナを行うことはオッケーだ」クリシュナマチャリア(私達の全ての先生の師)は女性にインドの聖典の秘儀を学ぶことを許した最初のブラーマンだ。そしてまた彼は、女性はヨガの未来だ、とも言った。パワーの領域の急速な平等化の世界では、ヨガにおける女性の役割もまた変化し進化している。ヨガの教えの基本となるのは、両極・極端さの統一であり、その光の中では、男性も女性も共に、力と柔軟性のバランスをとる方向へ歩むことが適切である。私が自分の身体においてバランスを経験しようと企むとき、私は肉体、感情、そしてスピリットのレベルにおいての極限の可能性まで押し広げている。ほかの様々な状況と同様、可能性の覆いをとっぱらい、自然と私の存在の現実への、実存的な疑問が、毎日のプラクティスの形を成している。

何年かのプラクティスを経て、一見不可能に見えるポーズを習得した結果、女性もまた男性と平等な力を持っていることには疑問の余地がない。Marianne Williamsonはこう言っている。女性の本来のパワーは、マグネティック(磁力を持ち)であり、魅力的で、そして幻想的である、と。女性の肉体は、受け入れる、育む、与える、生産する、保持する、支える、曲がる、縮む、そして時には再生の為に一旦壊れたりもする。性的器官を晒すというよりはむしろ、とても女性的な形式の中心部として子宮に安らぐというのは素晴らしいことだ。生のための静寂と暗闇。このイデアを引き寄せる暗闇は、月の周期によってエネルギー、波、変化、生命力そして繁殖をもたらす。男性の肉体が筋肉によって、押し、突き刺し、そして交戦するのに対して、女性の肉体は手招きをし、誘惑し、そして包含する。この決定的な性差の違いの中では、女性はヨガのプラクティスにおいて、また人生において、強さを見出さなければならない。男性社会の強引さに対抗するのではなく、女性独特の方法で、私達のミステリアスな女性パワーの真実へ触れる世界へ、軽やかに踏み込んでいくべきなのだ。

もし女性が、月の周期や出産の可能を包括した女性の肉体の現実を否定したなら、その魂は鎖に繋がれたままになってしまう。もし女性のヨギニが皮膚を緊張させながら、簡単に不平を言ったり、つくり笑いをしたり、我慢してしまったら、顎の緊張によって女性的な柔らかさが犠牲になってしまう。その代わりに、女性の強さは、すべての曲線の柔らかさと固さを抱擁することから生まれる。過去5年間に渡りチャレンジングなアシュタンガヨガのアドバンスシリーズを練習してきて、忍耐、実用的な考え方、そして優美さが、私達女性の肉体と強さと魂の中にあることを知った。男性の「強さ」はより大きく、外側へ向かい、到達するために努力し、時には戦ったりもする。これは別に女性が戦ったりせず暴力的ではない、ということではなく、暴力というものは女性の肉体の中では、また別の形式をとる、ということである。女性の、時として小さな身体は、男性の成功へ至る形式を、肉体レベルではそのまま真似ることができない。女性の優美なハートを保ちながらも、男性と同じ力強さの功績を成し遂げるには、女性的な形態そのものを敬い称えることによって、自然と自らに蓄えられている「強さ」へのアクセス方法を、この肉体で学ばなければならない。この「強さ」は、支配的な押し付けの中にあるのではなく、「強さ」と「優美」の完璧なバランスの中で、どのように、どこに働きかけるかを、はっきりと定めることによって生まれてくる。

私の人生の大半は、70年代に台等したフェミニズムの残余がDNAに刻まれたまま過ごし、男性のパワーと戦い、張り合い、彼らを心から愛することはなかった。ヨガが私に与えてくれたのは、真実の、完全なる「自身への敬愛」であり、そこにいる限り私は、自分の女性としての身体の美しさとパワーを感じながらも、力強い女性として心地良く安心して身を委ねることができる。自分自身を愛する女性は、男性をもまた、彼らの本来の姿を愛し祝福することができる。全てのハンドスタンド、アームバランス、バックベンドそして重力を征服したリフトアップにおいて私は、男性のやり方やフォームを模倣などしない。その代わりに、私の血管、筋肉、肉体、心、そして魂を通して、私の女性としての生を、その奔流を、許し、受け入れていく。

女性はとても優れた世界の門番だ。私達の「ノー」が許可・非許可の線引きを行うかたわら、私達の「イエス」は私達の身体の内側のスペースへの侵入を許可する。私達の選択する、集める、そして放棄する能力において、私達は自分たちの本当の自由裁量を発見する。男性の荒々しい力強さと張り合うのではなく、晴れた夜の満月のごとく、優雅で、聖像のように、パワフルで、美しく、魅惑的で、心を奪うように輝くのだ。ヨガのプラクティスにおいて「力強さ」は女性にも生起してくるし、これは男性も同じこと。ただ、それが現れるとき、優雅な女性的な形態と引き換えに手に入れるのではなく、むしろ、私達女性全ての肉体に潜む静かな力、その精度を高めることによって確立されるのだ。

Fit Yoga, June 2008
© 2008 Kino MacGregor




The Quiet Strength of a Woman's Body
By Kino MacGregor


In a political year where the United States had the first viable female contender for the Oval Office, the question on the tip of every woman's tongue is what defines a strong woman. Is a female leader one who learns to master a man's world? Or is there some other essence that is at play in a woman's claim to empowerment?

Far from being a respite from the politicized arena of gender politics, the yoga world sometimes makes deeply held assumptions about male and female roles more evident. Contemporary dogmas of what's possible for men and women contribute to what every yoga practitioner believes is possible for male and female bodies. If you're a woman, you might wonder whether you're the wrong shape, size, weight or gender to actually be able to catapult your woman's hips through the air and resign yourself to being flexible. But this type of thinking undermines a true sense of power for either gender.

In yoga there is an unfair assumption that all men effortlessly perform gravity-defying lift-ups, and all women snake their way into all manner of flexible positions. While the mindset of teachers, students and traditions often perpetuates some very traditional gender roles, the reality of yoga practitioners tells a different story. There are men who are hypermobile and unable to lift their butts off the ground, and there are women who are stiff as a board but able to balance unwaveringly in a handstand. One of yoga's greatest lessons is that there are no universal standards for bodies, and that all bodies, genders, races and ages have the ability to benefit from and master this ancient practice.

That being said, if you're a woman it's still easy to discount yourself when you peer into the lexicon of masterful yoga DVDs from strong, skinny men like Rodney Yee, David Swenson, Richard Freeman, Chuck Miller and Sharath Rangaswamy. Your child-bearing hips and soft curves may look nothing like these master teachers' sinewy legs. When you look for evidence that women can actually be strong in the yoga world, you dig into the very essence of femininity. Sometimes it seems like women who can perform gravity-defying feats and achieve political success have overcompensated in toughness to excel in a male-dominated world. Locking down traits typically associated with femaleness like softness, openness, emotionality, and tenderness means that powerful women are often feared for their harshness. The word "bitch" is often indistinguishable from assertive when applied to a woman's presence. Some people are even afraid of Ana Forrest, and many call Hillary Clinton an ice queen.

Trading quintessential female traits to succeed in a man's world devalues the essence of a woman. The complexity of gender is such that there are no easy answers to what constitutes essential male or female traits. My personal journey into yoga led me to ask the very difficult question of whether there is a natural strength in a woman's body that is different, but not less, than a man's. I began my journey into yoga nearly ten years ago as the stereotypical flexible girl with no strength. In awe of the mysterious lift-up, arm balances, handstands and vinyasas, I looked critically at my extra cushioning around the bum, small arms and petite frame, and blamed my shape and gender for what I could not easily do. Male teachers in the Western world, meaning well, simply let me slide, saying that they did not expect women to actually match men's strength. Movement-based, scientifically-backed anatomy books state that women's bodies have a lower center of gravity and therefore have a different set of rules to work with, thereby casting women as the physically weaker gender. Science, stereotypes and points of view could have created an artificial limit, but I dug deeper.

My ninety-three-year-old master teacher, Sri K. Pattabhi Jois, said one day in a group conference in Mysore, India in his iconographic broken English: "Yoga changing. Now some women very strong. Correct asana performing possible. Before, not possible. Now possible. All women doing all asanas o.k." Krishnamacharya, all of our teachers' teacher, was the first Brahmin to allow women into the secret study of the Indian sacred texts and is also quoted as saying that women are the future of yoga. In the arena of a quickly equalizing realm of power, it is fitting that women's role in yoga also changes and evolves. The basic teaching in yoga is the unification of extremes, and in that light it is appropriate that both men and women are asked to move towards a balance between strength and flexibility. When I attempted to experience this balance in my own body, I was pushed to the very limit of my physical, emotional and spiritual potential. Just as in any situation that pushes the envelope of possibility, existential questions as to the nature and reality of my being took form and shape in my daily practice.

After years of practice and mastery over seemingly impossible postures, there is now no doubt that women have an equal type of strength, too. Marianne Williamson says that a true woman's power is magnetic, attractive and visionary. A woman's body receives, nurtures, gives, produces, holds, bears, bends, grows, shrinks and sometimes even breaks, only to rebuild. Rather than an exposed sexual organ, in the heart of every female form rests a womb that is a great, silent and dark potential for life. This darkness that draws its archetype from the lunar cycle pulls energy, tides, change, life force and fertility to it. Where a man's body has muscles to push, thrust and engage, a woman's body beckons, seduces and contains. It is in this crucial difference where women must find their strength in the yoga practice and in life: Not in emulating the deep belly thrust of a man's world, but in tapping into a uniquely feminine way to engage the world will women touch the mystery of true female power.

If women deny the reality of the female body, including its cycles and birth potential, then the feminine soul is still held in highly contentious chains. If female yogis simply grunt, grin and bear it while toughening their skins, then their feminine softness is enslaved by the tension in their jaws. Instead real female strength comes from embracing the softness and solidity of every curve. Having practiced the challenging Advanced Series of Ashtanga Yoga continuously for the last five years, I find that endurance, pragmatism and grace are well within the domain of my woman's body, strength and soul. A man's strength is louder, directed outward, striving, reaching and sometimes fighting. It's not to say that women don't fight or aren't violent, but that in a woman's body violence takes on another form. A woman's sometimes smaller body cannot simply mimic male form in the physical world to succeed. In order to perform the same feats of strength with the graceful heart of a woman, the female body must learn to access its natural reserves of strength by honoring the female form in and of itself. This strength lies not in forceful thrusting, but instead in determining exactly how and where to work, with a perfect mix of strength and grace.

For most of my life I have carried the residue of the 1970s feminism in my genes, and on a subtle level, fought and vied for male power while never really loving the men in my life. Yoga has given me the gift of real and total self-adoration; in that sphere I rest as a strong woman with a sense of the beauty and power of my woman's body. A woman who loves herself is also able to love and celebrate men as they truly are. In every handstand, arm balance, backbend, and gravity-defying lift-up, I do not seek to replicate the male form, but instead to allow the flow of my female life to course through my veins, muscles, body, mind and soul.

Women are the great gatekeepers of the world. Our "yes" permits entry to the inner space of our bodies, while our "no" draws lines of approval and disapproval. In our ability to choose, to gather and to draw, we find our true empowerment: Not in emulating the boisterous strength of men, but instead shining like the full moon on a clear night, we are graceful, iconic, powerful, beautiful, mesmerizing, enchanting and captivating. In the yoga practice strength must come for women as well as men. When it comes, it is not at the expense of the graceful female form but as an enhancement of it--for it is a quiet strength that lies within every woman's body.

© 2008 Kino MacGregor
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Half way through  

カランダで「落ちず」に「降りる」ことができるのに4ヶ月。


halfwaythrough.jpg



一般的には「遅っ・・・」なのかもしれないが、自分的には意外に早くて拍子抜け。カポタみたいに「ああああああ、できるようになりたいー!なりたいー!」という執着が、まったくないポーズだからなのか、「とりあえずここまで進んだからやるけど、これができたところで”だから、ナニ?”」って醒めてる部分があり、できないポーズに対する温度差をここまで感じるのも、なんだか面白かった。ピンチャが安定してからも、「ロータス組めない、組めてもドスンと落ちちゃう」がずっとアタリマエで、別段どこそこを強化しようとか、周囲にヒントを貰おうとか、準備ポーズで特訓するとか、カポタのときに発揮したような(笑)真摯な姿勢は皆無だった。というか、だいたい、教えてくれる指導者は「男性」ってのが意欲をそがれてたのかもしれない。「いったい、どうアプローチしていけばよいのか?」という素朴な質問への的確な回答など一度でもあっただろうか?否、むしろ期待すらしていない自分自身すらそこにはあったような・・・。


「とりあえず、やってみる」
(はい、一応これでも、やってるんですが・・・)

「ここでバンダを登場させる」
(ふむ、バンダ?んーっと、わかりません)

「女子は腕力つけるとこからじゃない?」
(うーん、一応土台はシッカリしてきましたが、さらに?)

「呼吸を使う」
(は?呼吸さんに仕事してもらうですか?)

「大丈夫、オンナノコでもできる人いるから」
(あらま、なんと素敵な性差別)

「肉体云々ではない、やるあなたの心次第」
(ごめんなさい、ワタクシ心が捻じ曲がっております)


私達は別の言語を使っているのか?と思うくらい意思の疎通ができないのが、深くて暗い溝に阻まれた、男女間のカランダ問答。筋力と根性以外に何もいらんよ、ただケタ違いに法外なだけでね、と男子諸君の片頬が笑っているのがよくわかる。肉体のハンディを乗り越えるよりも、「オンナノコだから、できなくてもイイヤー」というその心根をまずは正したまえ、というお説教オーラがビシビシだし、たまにスタジオ行って練習すれば、超過保護なアジャストで「ほーら、高い高い」に終始するばかり。むーん。

でもま、いつまでもスネててもラチあかない。オンナノコであっても、抵抗感がイッパイあっても、腐らずに、とりあえず自分なりにチマチマ固めるように練習していくのが肝心。肉体的バックグラウンドからして別人種の男子と、同じようにやろうとすること自体がおかしな話。女子には女子のやり方があるはずだし、力技に関しては優性である男子を、むやみに模倣する必要なんてない・・・という気づきくらいは、こんな私にもあった。ただ体現するのがメンドイなー、って。

唯一、本当に「あ、これか?」というヒントをもらったのは、地元鎌倉のマイソールクラス。ここでは「超過保護なアジャストは大嫌いだからね、絶対やんないでね、やっても拒絶するからね」とハッキリ伝えているので、余計な手は出さないでくれるのがありがたい。カランダもしかり。ドスン、ドスンと落ちまくりつつひとりで奮闘していたある日、「うんしょ、おっ、ロータス組めて安定した、さて、下りるか・・・」と息を詰めた瞬間、「吐きながら!」と、隣から声がかかった。そして「尾てい骨、上!」と更に一言。ゆっくり膝をおろしていきオシリ側に重心がちょっと移動すると、「尾てい骨、上!」とまた一言。その都度、意識を「ケツ→上」に留めることで、微細ながらも重心移行のコントロール自体に変化がでてきて、「あ、ここか。このベクトルに向かって練習を進めればよいのか!」というのを体感した。そのときは、やっぱり最後にドスンと落ちたんだけど、それでも、「いまはできないけど、こっちの方向へ歩いていけばいいんだ」っていう指針が掴めた。下手に身体を支えてもらったりするより、このときばかりは「言葉のアジャスト」がとても有効であった。

それからしばらく経ったある日、練習後に呼び止められて、「カランダで必要なエネルギーの大きさを、過小評価しすぎている」と指摘された。私が「このくらいでできるんじゃないかな?」と思っているよりも、もっともっとギューっとコアの力が必要なんだと。ハッキリとは言われなかったが 「カランダなめんなよ」 ってことか。もっと体力温存して、カランダでガーッと力を出し切る。それも5回も10回もダラダラやるんじゃなくて、一発勝負くらいの気合で超真剣にやること、とダメ押し。「へー、そうなんだ」と素直に納得した。んで、その翌日に言われたとおりにやってみたら、できた。正直かなり拍子抜け。私に欠けていたのは腕力でも腹筋でもなく、自分の「挑む姿勢」と「真剣な集中力」、そして的確なベクトルの方向性だった。必要だったのは、肉体の補助的なアジャストではなく、自立して自身でコントロールする自分への信頼。OMGなんてこった。

いったん身体でスコンと腑に落ちちゃえば、あとは楽にできるようになるのが常で、カランダもしかり。降りるところまではもう大丈夫。そこから「上がる」のは、また別のハナシで、これからの楽しみなんだけど。こう考えると、カポタはいまだに「身体で腑に落ちて」ないんだなー、と思う。いまだに痛いし辛いしパニック起こしてる。そうか、カポタ君、もしかするとカランダ鳥に先越されるかもしれないから、最近疎かだったけど少し意識的に取り組んでみるねー。

ところで昨日の月曜日は、お墓参りのついでがあったので、九段下で久々1ヶ月以上ぶりのハーフセカンド練習。汗いっぱいかいた。カポタでアジャスト、気持ちよかった。チクタクや蠍のポーズのアジャストも、まったくできなくなってたけど、嬉しかった。「やってもらってナンボのアジャストなんてねー」とひねくれてはみても、自己練習がメインになってくると、月に数回のアジャストは、とっても有難い。感謝の気持ちと、存分堪能しよう^^って気持ちになる。

カランダは普通に「降りる」とこまでは自分でやって、アジャストで「上げて」もらって、うーん、やっぱりここから先は長い道のりだわ、と思った。が、久々に来たからなのか、最近の方針なのか、未完成なカランダにもかかわらず、ついでに次のポーズを「もらった」(ダンさんだったらありえない:笑)→マユラーサナ


mayurasana.jpg



あらー、これまた・・・先が長そうですね。でも肉体の柔軟性や稼動域に制限されるポーズでない分、重心やバランス、呼吸と意識とエネルギーのベクトルと遊びながら、「お!これか?」と、見つけていくのが楽しそう・・・はい、そうです、ハッキリ言うと、まったく太刀打ちできませんでした(笑)これと、あともういっこくらいは、こんなのが続くのかー、と、ちょっとセカンドの山に差し掛かった気分。





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余計なことしない・やるべきことをやる  

練習はじっくり深くやるのが良い
とずっと思ってた。

ゆっくりとした呼吸で
ひとつひとつのポーズに深く入り込み
長い時間をかけた練習が良い、と思ってた。

それは習慣になる。
それが当たり前となる。
その枠からはみ出るのが怖くなる。



今日は股関節が固いから
念入りにマリーチを、あえて10呼吸で。

とか

カポタに備えてウシュトラを
ゆっくりじんわり身体を開くように。

とか

このポーズは気持ちいいから、
呼吸を倍くらいの長さにして、
できるだけ長くポーズに留まる。

とか。



本来のビンヤサのカウントを無視して
「より深く、もっと柔らかく」とか
「心地よい肉体の快楽を追い求める」とかいう
自分のエゴや執着に囚われた練習に陥りやすいのが
マイソールスタイルの落とし穴。



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本来ならば
吸って=get position(次のポーズのポジションについて)
吐いて=into the pose(そのポーズに入る)

と、流れるように繋げていくものなのに

吸って=次のポーズのポジションについて
吐いて=うんしょっ、とポーズにニジり寄って
吸って=ちょっと深めにポーズに入りかけて
吐いて=もいっかいうんしょっ、と身体のアチコチ微調整しながらモゾモゾして
吸って=ようやく準備完了
吐いて=安心してポーズに入る

なーんてやることに疑問をもたなくなる。



苦手なポーズは殊更に深めようと。
お気に入りのポーズは殊更に楽しもうと。

余分な呼吸は、余分な動きは
すなわち余分な渇望、余分な執着
の表れ、だったのかもしれない



決して昔の自分を否定するわけじゃない

そういうやり方が必要だったから
そうしてきただけで
そこを経たからこそ
それを客観的に見る視点が
生まれてきたような気がする



white02.jpg




もちろんその日その日で
心身コンディションは違う

その差異を繊細に感じ取り
毎回違ったアプローチで
今日はゆっくりと、今日はサクッと
微妙に変えてする練習

そういうのもアリかもしれない
いやむしろ、そちらのほうが
非常にヨーギカリー・コレクトだ



だけど、そこをあえて
ガジガジの規定フォームに
自分を落とし込んでみたい
というのが現在の自分

身体が固くても、重くても
決められた呼吸で
決められたビンヤサで

余計なことしない
やるべきことはやる

そういう練習を
最近は心がけている

多分、今は、そういう時


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Happy landing カランダ鳥、無事着陸  

今朝カランダバーサナで
脇の下に膝を乗せて
お尻を浮かせた状態で
床に落ちずに無事着陸

意外とそっけなくできて
え?マジ?(@◇@lll

2回目できなかったら
夢だよな、とか思いつつ
再度挑戦、やっぱできた!
(頭が床についたけど・・・これって反則?)

ついでにロータス組んで座った状態から
カランダへ入る練習もしてみた
いや・・・腹筋のいいトレーニングになるかと思って(笑)
おお、へなちょこながも上がった!

あとは、これを「上げる」んですね、確か?
ふーん・・・/*▽*/




あら、頭つけてる!


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たべること  

だいたい想像はしていた。

ローフード50%くらいの食生活を始めて3週間。
極端に陰へ片寄っていく自分がハッキリ感じられてた。

チッタのヴリッティは大人しくなる、動じないズッシリ感が出てくる。
あまり活発でない、怠惰の一歩手前のような、もったりとした感覚。
自分自身は軽いんだけど、ハイパーに動き回れない状態。
世界がスローモーション、だけど大きく迫ってくる。
落ち着いた、というか、醒めてる、というか。
なんか、みんなが遠いなぁ、って感じ。

痛いとか、辛いとか、嫌だ、に対して
逃げよう、挑もう、克服しよう、とかの
自らアクションを起こす意欲がない。

身体は確かに軽くなる。
とくにお腹周りは背骨以外なにもない感覚。
集中力もクリアで邪魔者がいない感じ。
アサナはとても楽チンになるけど
精神的なスタミナがちょっと不足。

やろう、がんばろう、みたいな気力が皆無。
とりあえずサラッと流すように
汗も最小に留まるような省エネプラクティス。

あらま、ワタクシ超ピッタで
ラジャス街道まっしぐらだったのに・・・!

あまりの自分の変化が面白くて
次は何が来るのか?と
正直ワクワクしては、いた




KakumaneOkanori.jpg






ところで先週末のこと
実家に立ち寄り
おかあさんのごはんをたべた。

ベジタリアンです、とか
ローフードなんです、とか
そんなこざかしくもえらそうな
エゴだかエコだか判らぬタワケゴトは
母の愛がこもった食卓には太刀打ちできない

昔ながらの甘い玉子焼きは
大根おろしとともに喉元をとおり胃にスルンと入り
全身に暖かさが広がるような美味しさだった

おいしくなあれ、おいしくなあれ、と
おかあさんが心をこめて握ったおにぎりは
普通の精製米だろうとなんだろうと
世界一おいしいごはんだ。

エコで無添加で安心安全な
オーガニックブランドのレトルト食品を
もぞもぞと味気なく摂るのとは違う。

必要な栄養素を摂るだけの機能食は単なる餌

食器や箸置きひとつとっても
床の間の花一輪とっても
食物の色や形や組み合わせにしたって
共にいただく相手にしたって

生きることを感じる、感謝する
季節を感じる、感謝する
愛情を感じる、感謝する

そういうのが人間の食事なんじゃないか、と
そういうのを豊かさと呼ぶんじゃないか、と
そんなことを思った




veggies02.jpg






はてさて週末の朝
目が覚めると空腹を感じてた
普段は置きぬけに食べたりしないのに
このときばかりは飢えた動物のように
自分の内に飢餓状態がハッキリクッキリとあった

ミューズリーを食べてからバナナ
ちっとも満足感を得られずナッツをポリポリ

こんな鳥の餌じゃラチあかんわ、と
モチモチ玄米に胡麻塩かけてわしわし食べる

胃はパンパンになるのに食欲が止まらない
ひょっとして甘いもの?と思い
チョコレートをパクン・・・甘味がツーンと頭にくる
だけど一気に全身が緩むのがわかった

夕方になって、またまた、ジャンクな欲求が高まり
柿の種をポリポリ、ポテチをポリポリ
キレ喰いとはこのことか、と 
なんかもう派茶目茶

ローな食生活で欠けてしまった
とあるナニカに対する飢餓状態
身体は正直に「足りない~!」と訴えるが
それは生理的な必須栄養素なのか
これまでの習慣で依存してたものなのか
それが何なのかを把握することができず
とりあえず手当たり次第のジャンク喰い

ふーむ、判りやすい構図である

キレ喰いの翌朝は
胃腸という胃腸がピリピリキリキリと痛み
七転八倒の苦しみを味わう羽目に
その日は終日グリーンスムージーだけ飲んで
全身をもういっかい大掃除

ローフードで心身をクリーンな状態にしては
キレ喰いでジャンクを身体に詰め込んで
それに過剰反応して七転八倒
改めてローフードでふりだしにもどる・・・

これって、なんか、違うと思う

エコでロハスでピースフルなローフードだけど
自分の身体のバランスくずして
逆ギレでジャンク喰いするようなら
普通の食事をキチンと摂った方がよっぽどいい

極端に陰に偏った自分を
極端な陽でバランスをとる
というのはなかなか受け入れられない

もうちょっと中庸どころを中心にすえて
やじろべえのように陰へ傾いては陽へゆれて、と
微妙にバランスを取っていく方が抵抗ない

そういうマクロビ的なバランスのとり方というのは
昔ながらの食事の知恵の中に普通にあって
私達に元々根ざしている生き方や信仰心が
そっくりそのままそこにあるから受け入れやすい

土地のものを
いのちそのまま
ありがたくいただき
せかいをじぶんにとりこみ
自然と、季節と、宇宙と、法則と
調和して一体となる

完璧に厳格なマクロビには傾倒しなかったが
75%くらいの割合で自然と取り入れる食生活は
とても心地よいものだったし、なにより心身が喜んでた。

やはり、このあたりを
自分の軸としてキープしていきたい。

ローフードもそう
極端にならずに適度に取り入れる。

ローフードの心身に及ぼす影響は
判りやすくとても魅力的なので
過剰にのめりこまないように
意識的にバランスをとっていかないと
ある意味麻薬とおんなじ。

一生ずっと「そこ」に居る
っていうんならハナシは別だけど


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眩暈  

先週くらいからずっと
スリアで頭を下から上にあげるたびに
血の気がスーッっとひいて
たちくらみ

たまにプラサリータで
クラッとすることはあっても
ここまで顔面蒼白になることは、まれ

途中でしゃがみこんだりしつつ
スリアBの4回目くらいでやっと慣れてきて
5回目でどうにか全身にエネルギーが流れ出す

やれやれ





最近はなんだか
ポーズのひとうひとつが
妙に深く感じられて

あ、でも
ネチネチやって
フィジカルに深くポーズに入る
っていうのとはちょっと違う

サクッと入ったポーズなんだけど
全身が雑巾のように絞られて
中身が外側の肉体から
はみ出していっちゃうような感覚





ダウンワードドッグで
気がついたら涙ポロポロ出てた
あれ?なんだろ
ま、いっか、そんな時もある

スプタバジュラーサナで
怖いくらい胸が開きすぎて
全身がワナワナガクガクと震えた

なんか悪いもんがたくさん
私の中から出てってる気が(笑)
もしくは単なる、大いなる勘違いさんか


mame.jpg
container 容れもの=様々な形や大きさ



季節のせいもあるのかな
ローな食事も加わって
鋭敏になる、軽くなる、クリアになる
直感が前面に出てくる

天然のハイパー加減が
落ち着いてきてる
いや、むしろ、ちょっと
陰に偏り気味かもしれない

It's all about balance





ずっとドロップオーバーを
封印しているせいか

ハンドスタンドが、あれ?
ふわん、と止まって

静止

5呼吸は無理だったけど
2~3呼吸はそのまんま
一瞬の中性浮力

あらま

ひっくり返って落ちよう
(=ドロップオーバー)と思わなきゃ
ハンドスタンドの状態で
バランスをとるようになってくる
っていう単純なことなのか?

これがキープできるようになったら
ゆっくりドロップオーバーやってみよう
おうちで練習してる分には
別に焦る必要もないし

あー、やっぱキーはここか





最近練習のなかで見つけたもの

awareness

acceptance

enthusiasm

joy





and・・・眩暈!







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The Invitation   

なにかとインスパイヤされることの多いヨガブログのひとつ "Now, this is Yoga"の、ちょっと前のエントリー
http://athayoganusasanam.blogspot.com/2009/07/invitation.html
で、胸にグワーっと響く詩があったので、暇にかまけて邦訳。




The Invitation
by Oriah Mountain Dreamer


It doesn’t interest me what you do for a living.
I want to know what you ache for
and if you dare to dream of meeting your heart’s longing.
あなたがどんな仕事をしているのかには興味がない
わたしが知りたいのは、あなたが心から望んでいるものは何か
そして夢を希求する勇気が、あなたにはあるのか、ということ

It doesn’t interest me how old you are.
I want to know if you will risk looking like a fool
for love
for your dream
for the adventure of being alive.
あなたの年齢には興味はない
わたしが知りたいのは、あなたが
愛のために、夢のために、冒険のために
愚か者となる覚悟があるかどうか、ということ

It doesn’t interest me what planets are squaring your moon...
I want to know if you have touched the centre of your own sorrow
if you have been opened by life’s betrayals
or have become shrivelled and closed
from fear of further pain.
あなたの星座や運勢には興味がない
わたしが知りたいのは、あなたが
自分の悲しみの核心に触れたことがあるのか
人生の裏切りによって剥き出しにされたことがあるのか
もしくは更なる苦痛への恐れに怯え
心を閉ざしてしまったことがあるのか、ということ

I want to know if you can sit with pain
mine or your own
without moving to hide it
or fade it
or fix it.
あなたが、自分の苦痛や、わたしの苦痛を
隠したり、誤魔化したり、取り繕ったすることなしに
共にあり対峙できるかどうかを、わたしは知りたい

I want to know if you can be with joy
mine or your own
if you can dance with wildness
and let the ecstasy fill you to the tips of your fingers and toes
without cautioning us
to be careful
to be realistic
to remember the limitations of being human.
あなたが、自分の喜びや、わたしの喜びと共にいられるか
慎重になるよう、現実的になるよう
そんな節度を促す警告することなしに
ワイルドになって踊り
指の先まで歓喜で満たせるかどうかを
わたしは知りたい

It doesn’t interest me if the story you are telling me
is true.
I want to know if you can
disappoint another
to be true to yourself.
If you can bear the accusation of betrayal
and not betray your own soul.
If you can be faithless
and therefore trustworthy.
あなたの話が真実かどうかには興味がない
わたしが知りたいのは、あなたがあなた自身であるために
他の誰かを失望させることができるのか
裏切り者と非難されても、自分の魂を裏切らずにいられるか
信頼のために不誠実になれるかどうか、ということ

I want to know if you can see Beauty
even when it is not pretty
every day.
And if you can source your own life
from its presence.
常に美しいわけではない物事の中に
あなたは美を見いだすことができるかどうか
そしてその存在を
あなたの人生の源泉とすることができるのかを
わたしは知りたい

I want to know if you can live with failure
yours and mine
and still stand at the edge of the lake
and shout to the silver of the full moon,
“Yes.”
あなたが、自分の失敗や、わたしの失敗と共に生きていけるかどうか
それでもなお、湖のほとりに立ち、銀色の満月に向かって
「YES」
と叫べるかどうかを、わたしは知りたい

It doesn’t interest me
to know where you live or how much money you have.
I want to know if you can get up
after the night of grief and despair
weary and bruised to the bone
and do what needs to be done
to feed the children.
あなたがどこに住み、いくら稼ぐのかには、興味がない
わたしが知りたいのは
悲しみと絶望で骨の髄まで傷つき
疲労困憊の夜を過ごした後に
それでも翌朝には起き上がり
家族を養うためにすべきことを行うことができるかどうか、ということ

It doesn’t interest me who you know
or how you came to be here.
I want to know if you will stand
in the centre of the fire
with me
and not shrink back.
あなたが誰を知っているか、どうやってここまで来たかには、興味がない
わたしが知りたいのは、わたしと一緒に火の中に入り
ひるむことなく立ち続けていられるかどうか、ということ

It doesn’t interest me where or what or with whom
you have studied.
I want to know what sustains you
from the inside
when all else falls away.
あなたがどこで、なにを、誰から学んだかには、興味がない
わたしが知りたいのは、全てが崩壊した後に
あなたを内側から支えるものは何なのか、ということ

I want to know if you can be alone
with yourself
and if you truly like the company you keep
in the empty moments.
あなたは自分ひとりだけでいることができるのか
共にいる相手としての自分自身を
あなたは心から楽しめるかどうかを
わたしは知りたい

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boys02.jpg
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【追記】

この詩に惹かれたのは多分。

いまちょうど
いろんな仕事の面接を受けてて。

私の履歴書、職務経歴書
お決まりの質問、エトセトラ。

私がこれまで纏ってきた
沢山のお洋服やら、アクセサリーやら、お化粧やら、
いくらでも取り繕えるアレコレ。

性別と年齢
出た学校
会社名や肩書き
目標達成の数値
資格やお免状のリスト

そういったもので自己プレゼン
そういったもので「わたし」が測られる。


Gauguin.jpg



1ヶ月ほど前にゴーギャン展を見にいった。
もちろんお目当ては、あの作品で。

われわれはどこからきたのか?
われわれはなにものか?
われわれはどこにいくのか?

結局立ち帰るのは
そういう根源の部分。

知らん振りしてても
外側だけキチンとしてても
奥底の深い部分は
ちゃんとそれを嗅ぎ分ける

なんてことを思った記憶がある





だいじなことなのに
平気で忘れちゃうんだなぁ









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本日、宅練にて  




ヨガへの興味が皆目ござらぬ
ウチのダンナさんを上手いこと誑かして
アシストしてもらおうプロジェクト稼動開始





wherewereyou.jpg
Where have you been?
いままでどこにいたの?






まずは手始めに
膝の上に脚乗っけて
対面で座ってくださればよい
スプタヴィラーサナ

・・・合格!



そして踏み絵的に
とりあえずは床に落ちないように
降りていく補助をしてもらう
カランダバーサナ

・・・臀部をガッツリ鷲掴みされつつも一応合格!





自分の嫁さんが
こんな格好するんかい?と
カランダでギョッとはしたらしいが

私のベタ褒め加減に
まんざらでもなさそうだ

よし、仕込むか



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セルフプラクティス  



きのうの日曜日は
長谷のマイソールクラスが
指導者不在のセルフプラクティス

これは行かなきゃ
とカタゴト江ノ電に揺られ
向かうは甘縄神社





zassou.jpg





2階の和室は
田舎の民宿みたいに
妙に居心地がよい

みんなでマットを敷いて
サマスティティヒ

たまにちょこっと
相互援助しながらも
基本はセルフプラクティス

だけどひとりで家でやるよりも
キリリと気分が引き締まる

なかなかによい感じ





blue.jpg





ひとりで家でやる練習
他の人たちと時を場所を共有する練習
指導者に見守られ指導を受けながらやる練習

それぞれに、それぞれの良さがある
だけどそれぞれが一長一短

時と場合によって必要なものは違う
それは得てして思い込みによって
曖昧になってしまうのだが

気づくときには
気づくようになってるみたい




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プライマリー・リセット装置  

週イチで行ってる
東京のスタジオ

いつも金曜日だから
いつもプライマリー

サクッと流して
だけどすっかり癒されて

週に1回のヨーガセラピー
ほんとうに心地よい




steps.jpg




全力投球で頑張って
疲労で燃え尽きるような
超インテンスな練習ばかりしてた

1日を健やかに迎えるための朝練ではなく
朝練で全てのエネルギーを使い果たしてた

それはそれで
そういう時期だったわけで
必要な経験だったのかな、と




zushi090602.jpg





そこを通過したからこそ

朝の練習で1日が終わるのではなく
朝の練習で1日を気持ちよく始める

っていうことの大切さが
シミジミと心の底まで
染み渡るのかもしれない




window.jpg





そして定期的に行う
週に1回のプライマリー

ここで初心に戻るように
ここで心身をリセットするように

肝心なことの
大切さや有り難味を
改めて感じるよい機会





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オナラじゃないのよ  

最近捻りのポーズが
妙に深まってきて
あれ?とか思うこと多し

多分ローフードとかで
腹回りがスッキリしてきて
シッカリ余すトコなく
捻れるようになってきた

もうキュ~っと
ヤバイほどに
キュ~っと

で、そうなってから
ヤバいことが発生





その昔とんねるずが
「オナラじゃないのよ~」という
@▽@lll~なギャグをかましてたけど

そのオナラじゃない方が
なぜか出てくる・・・
それもかなりスゴイのが
ブホッ・・・

特にパシャーサナ
ついに制覇か?
くらいの気持ちよさを
押し留めるかのように
ブホッ・・・

やーん
なんで?


bodies.jpg



これはどういう
「からだのしくみ」
になってるのだ?

どこから空気が入ってるんだ?

ムーラを締める度に
空気を吸い込んでるのか?

ウジャイ呼吸がダダ漏れで
子宮まで零れてきてるのか?

わからん






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