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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

チャクラーサナ  

要はデングリガエシ。
子供のころ、しょっちゅうコロンゴロンとやっていたアレ。
だけど、なぜか、この動きがとても苦手だ。

体型的に難しいとか、物理的に不可能だ、というわけではない。

ただ単に、身体のどこをどこへどのように動かすのか?
エネルギーのベクトルが上へ向くのか、後方へ向くのか?
呼吸とのタイミングはどうなっているのか?
この辺がまったく判らないし、
どの先生に聞いても笑われるだけで
教えてもらえないまま現在に至る。

私「チャクラーサナができないんです」
先生「いいよ、やらなくて。この動きはまったくナンセンスだから」

私「チャクラーサナができないんです」
先生「やってみせて」
私・・・やってみせる・・・ウンショ、ゴキッ、アタタ、ズルズル・・・
先生「なんでできないの?」

私「チャクラーサナができないんです」
先生「できないと思うからできないだけ」

私「チャクラーサナができないんです」
先生「とりあえずプラクティス。そのうちきっとできるようになるから!」

こんな繰り返しで、誰一人としてテクニックを教えてくれたことがない。
だから、いつまでたっても、ウンショ、ゴキッ、アタタ、ズルズル・・・スタイルだ。

昨年からの首の痛みが発生してからというもの
ただでさえ「いっつも首をグキッとやってるチャクラーサナ」ゆえに
痛みをさらに悪化させたらドーシヨウ?と弱気になり
「ま、いっか。首痛いんだし」と言い訳して
一切やらなくなった。

「首が痛いのでチャクラーサナはやらないようにしてます」
と、先生に宣言すれば、誰もがOKしてくれるのをいいことに。


先日、どこの朝練にも行けないほど寝坊をして
たまたま会社が休みだったので、
1年ぶりくらいに荻窪のレッドクラスへ参加した。

初めての先生だったので
「首が痛いのでチャクラーサナはやらないようにしてます」
とスタート前に伝えた。

無論
「痛みがあるなら、無理してやらなくていいよ」
といわれることを期待してのことだ。

ところが
「じゃぁ、負担なくできるやり方教えるね」
とサラッ、っと言われて、え?

「一旦痛める経験をしちゃうと、身体が怖がっちゃうんだよね。
でも大丈夫だから。痛くならないようなやり方でやろう!」

そう言って、そっとサポートしてくれたチャクラーサナは
これまで私がやってきたチャクラーサナとはまったく別の動きだった。
身体のどこにも、ましてや頚椎になど一切負担がかからなくて、軽い!

は?今のなに?

というのが、1回目の私の反応。

それから2回目、3回目と、何回やっても同じように、軽い!

首がグキッってならないなんて、それでもチャクラーサナ?

がーん。


ポーズや動きが最初からあまり問題なくできる人と
できない苦労を乗り越えてできるようになる人がいるとしたら
この日のレッドクラスの先生は、きっと後者なんだろうな、とが思いながら
彼女の親身で、暖かく、そして優しい言葉を聴いていたら
マットの上でポロポロと涙をこぼしてる自分に気が付いた。



そういえば、私がアシュタンガを「ヨシ始めよう!」と
初めてIYCのクラスに参加したのは六本木のダンススタジオ。
太陽礼拝からスタンディングまでをやるクラスで
参加者はほとんど、そのスタジオでダンスをやってる生徒さんばかりだった。

私はもちろんほとんど全部のポーズが全滅で
中でも、アルダバッタ ・パドモッタナーサナ は
どうやったら後ろに回した手で半蓮華座の足先をつかめるのか?
まったく理解できなかったので、その旨をインストラクターに伝えた。

「すみません、手が届きません。どうしたらいいですか?」

すると彼女は私にこう言った
「え?なんで、こんなのができないの?」

その反応を聞いて、
「あ、できない私の方が普通じゃないんだ、恥じ入っておこう」

と悟り、以降は一切口をつぐみ
心をシッカリと閉じたままそのレッスンを終えた。

そのインストラクターを非難するつもりは毛頭ない。
彼女にとっての「当たり前」のレベルが
ダンサーという次元から降りてこなかっただけの話だ。

首の痛みがもとで
無意識のうちに恐怖心で萎縮していた私に
チャクラーサナを克服させてくれた先生は
私の居るところまで降りてきてくれてた。
だから、嬉しくて、とても安心できた。
だから、結び目がまたひとつリリースされた。

ふと、自分を振り返る。
地元のヨガクラスでポーズを説明するときに
私は、私の「当たり前」が基本になってはいないだろうか?
自分がなんの苦労もなく曲げている身体の部位が
他の誰もが同じように曲がるとは限らない。

「”普通に”あぐらで座る」ことができない
「”普通に”膝を90度に曲げる」ことができない
「”普通に”顔を上に向ける」 ことができない
そんなこんながあたりまえにある。

一体”普通”ってなんだ?

”普通”を目指してどうのこうのってよりも
その思い込みからの解放のほうが
実はもっともっと大事なんだと
またひとつ、改めて発見。

私達の心と身体には
ほんとうにたくさんのいくつもの結び目がある。
だけど、ヨガを通して、それらをひとつひとつ
unknot(=結び目を解く)していくことができる。

あー、やっぱり、すごいこっちゃ。



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バランス  

めっきり春めいて心ワクワクソワソワ。
だけど身体はイマイチ本調子じゃないから、自動セーブ機能活動中。
ゆえになんだか微妙さが残る最近の朝練。

先週、先々週と真面目に週5日練習しました、よくできました。
最近朝まったく起きられないので、寝坊をすれば地元鎌倉のマイソールで。
時たまソレデハイカン!と気合を入れては九段下のマイソールへ。

実は荻窪でのマシューのマイソールへ行く企みもあったが
なにせ普段の九段下にすら通えない意思の弱さ・・・
どこをどうやたら4時起きなどできようか?
と、早々にアキらめました(笑)

鎌倉では、ほとんどのポーズでギュウギュウのアジャストが入る。
なので、ここで練習するときは、非常に深―くポーズに入ることに。
トリコナーサナで既に「フンガッ」とか言うのって
ちょっとやり過ぎとちゃいますか?と疑問を持ちつつも、
普段の自分の度量では到達できない地点へ
グーンとショートカットで連れて行ってもらえるのは結構新鮮で面白い。
自分の思い込みで作り上げている限界値なんて
自分を「解放」さえしちゃえば、実は簡単に超えることができる。
痛みも苦しみも緊張も収縮も自己制限も
自分が「解放」され「自由」になることへの抵抗
つまり不安と恐怖の表れなんだってこと
それを実際に自分のからだで体験できるのはスゴイこっちゃ。

一方、九段下では、これがまた、びっくりするくらいの放置プレイ~!
最後のポーズ、もしくはドロップバックまで一切アジャストなし、という徹底振り。
あくまで基本は自分の練習
そこに、過保護な押し付けにならない
必要なだけの手助けとしてのアジャストがたまに入る。
現在の私には、このくらい放っておかれるのが、実はちょうどいい。
自分のペースで、外部に邪魔されることなく、練習に集中できる。

フルプライマリーをトータルで中断することなく
自分ひとりで練習できるようになったのは
ここ最近の、この九段下での練習のおかげだ。

フルプライマリーはヨガセラピーである
というのが、やっと体感できてきたのも、同じくここ最近。

確かに熱も汗も出て、エネルギーが上昇してくるけど
深い部分でしっかりと心が浄化され
とても平和的に安らいでくる。

Stillnessを感じる。
そして、その揺らぎも感じるし
それがとても楽しい。

こういった微細な部分に気がつくゆとりが生まれたのは
「先のポーズを早くもらおう!」
とか
「今もがいているポーズの完成度を高めよう!」
とかいう野心が消えていったからなんだろう。
昔は、その野心こそが原動力だったのに(笑)。

分断された個々のポーズへのこだわりよりも
ひとつの「流れ」としてのシリーズの醍醐味を味わう。
その機会を与えてくれたのは
九段下での愛ある放置プレイ(笑)

そして、ポーズへの執着や渇望
思うように動かせない肉体の葛藤
それらはみんな、オツムの中で作り上げてる問題
そこが解放できてスコンと抜けられれば
無限の可能性と自由を自分に許せれば
肉体なんて実はいとも簡単に制御できる
という感触を体感したのは鎌倉のマイソール。

改めて振り返ってみると
ちょうどいい具合にバランスがとれて
なかなかに面白い洞察を得ている
最近の朝練模様なのであった。

いやいや、過去形じゃなくて
まだまだ、続行中です。



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ところで  

地元でヨガクラスを始めて数ヶ月が経った。



あれやこれやの試行錯誤を経て、現在は3つのクラスを、市民センターで毎週末に行っている。



また、色々な理由からスタジオへ通えない方対象に、マンツーマンーで「ヨガクラスの出前」をする出張ヨガを、1ヶ月前からローカルエリアで始めている。



来月からは現在勤務している某仏系企業の「ヨガクラブ」で、超ハードワークな企業戦士に一息入れてもらうべく、週1回の夜のクラスを開催することが決定した。



気がついたら、パタパタパタと教える機会が増え始め、自分の中でも伝える手段や方向性が形になってきて、同時に自分のプラクティスの質がガラリと変り、なんかやたらと面白い。







ところで私はヨガのクラスを通して、なにを伝えようとしてるのかな?



と、改めてクラスでの自分を振り返ったときに、気がついたことがある。

ここ数ヶ月の間、何度も何度も繰り返し口にしていることは
バックベンドの仕方じゃない
どれだけ前屈できるかじゃない
滞りのないスリアマナスカラのやり方でもない

「愛と慈悲の心を持って」そして「恐れずにハートを開く勇気」
ただそれだけだった。



マットの上で身体の外側でポーズの練習をするだけなら、ジムナスティック(体操)と変わらない。

また自分の内面だけでヨガ修行に精を出したところで、周囲や他人に対する愛や慈悲の心がなければ、それは単なるエゴ遊戯だ。

そして自身に対する優しさと慈しみを持てない限り、どうやって他者へ思いやりの気持ちを持てるのか?

自身を愛すること、それは、自身をはっきりと見つめ、受け入れる勇気を持つことなんだと思う。
だから、まずはそこから始める、それだけのこと。



私が「教える」ことなど、本当はなにもない。
だって、それは、みんなの中に元々備わっているものだから。



ヨガのクラスは、そのとっかかり、そこから先は個々が歩んでいくもの。

定期的に通ってくれる方々が、どんどんとアンテナを広げて、新たなチャレンジや発見をしていく姿を見るのは、とても嬉しい。

たまたま「ここにいる私」が、「たまたまここにいる彼・彼女」の旅のキッカケ作りになる。

すごいこっちゃ。



TTCのヘッドティーチャーだったリザとメールでやり取りしているときに、ふと書かれていたメッセージ。

To teach is to learn, right? イエス、そのとおりです師匠!

道先案内人として「アッチ・コッチ」と指し示しているうちに、自身のゴチャゴチャとしたものまでクリアになってきた。

・・・うーん、たまんないです。




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久々にフルプライマリー  

今朝の練習で久しぶりにフルプライマリーをやった。

1ヶ月ぶりだったので、後半のアサナの流れはすっかり忘れてて、壁に貼られたチャートを見ながらの練習。

実は今回の首~背骨の痛みを経て(まだ痛いけど)、いい感じにココロもカラダも緩んできたせいか、これまで出来なかったことが出来るようになっていた。

それはほんの小さな変化なんだけど、ささやかながら自分が変化していること、それも「前進」の方向へ向いていることに驚き、なんだか嬉しい。

例えば、スプタクルマーサナがアジャストなしでシッカリできるようになったとか、

スタンディングのアルダバッダで脛にアゴがつくようになったとか、

ピンダーサナで手首を掴むことができるようになったとか、

ヨガニドラーで両足の親指をちゃんと掴める様になったとか・・・

普通の人にはできて当たり前のことが全然できないから、スゴーイ劣等感がいつもあって、だからいつも焦って「できるように!できるように!」って頑張りすぎて、結果的にガジガジのココロをカラダを作り出しちゃっていた事柄が、気が抜けたら「なんだー」って感じで軽くできるようになっていた。

今朝は九段下のD先生が一時帰国で戻ってきてて、指一本触れられないノーアジャストの練習だったけど、心の奥底から安心感があって、暖かくて、揺らいでない自分をしっかり感じられた。

先生に対する信頼というのは、とってつけて表面で玩ぶもんじゃなくて、しっかりと奥の方で静かにちゃんとある、そういうもんなんだ、って思った。

そういえば先週はアタマの2日しか練習してなくて、後半はずーっと突然やってきた生理で休んでた。

いつもは2日間で終わるマイムーンディが、今回は1週間近くもあって、しかも、「後半は詰め物して練習しちゃおうかな?」なんて企みすら思えないほど本当にシッカリ!とあって(笑) 、なんかここまでくると「休むことを余儀なくされてるなー」って、結構笑えた。

シャバーサナの途中でガラリ!と開けられる窓からの空気は、すこしだけ暖かくなってきていた。

昨日作った桜餅とよもぎもちをスタジオの皆におすそ分けして、懐かしいサクラの香りに春の気配を感じながら、ワイワイとみんなで帰路につく心地よさ。

春は近いぞ、と、なんだかワクワクしてくる。

今日も良い日です、ありがとう。

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