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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

冬は、なんやかやと、痛みがキツイ  

今朝の練習は可もなく不可もなくフラットに
ただひたすら集中してベカーサナまで問題なく終了。

しかし、だ。

ひとりバックベンドを3回やった後
背中にえもいわれぬ不快感がゾワゾワと。

サマスティティヒの立った状態から
後ろへドロップバックをしようと状態を反らす・・・が
反れない、あれ?

深呼吸して再度トライ・・・あれ?
首が胸が全然反れない・・・!

ちょっと上を向くと肩甲骨と背骨に激痛が走る。

あらまぁ・・・
と、バカみたいに突っ立ったまま
まったく動けない自分の身体に愕然として立ちすくむ。

ドロップバックもチャクラバンダーサナのアジャストもリタイヤ
前屈してフィニッシングへ。

いや違う違う、フィニッシングすらできない(笑)
ドーシタ?私のカラダ?

「アイタタ・アタタタ」とよっこらしょ状態で
ブランケット使ってズルズルと這いつくばる自分。

練習後更衣室で他の生徒さんに
「なんか、オバーチャンみたいだったね」
と言われた、あははは。

新宿5丁目のスポーツマッサージへ直行するも
こんな状態じゃ治療もできません!とキッパリ。
周囲の筋肉を緩めるに留まり、あとは鍼と湿布で凌ぐ。

冬だから、っていうのもあるけれど
こんなになるってのは、日々の積み重ねみたいなもので
ついに来るべきときがキタって感じですね、とは施術者の弁。

そうか、そうだな、きっと
私はどれだけの負担をかけてきたんだろう?

私は自分のカラダのことを
本当は全然理解してないんだなぁ

と、ため息ひとつ・・・
うー、それすらカラダに響く・・・アイタタ。


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日々の練習  

今年は痛みとケガの年になる気がする。


昨年12月にチャクラバンダーサナのアジャスト中に腰をグキッとやって、しばらくリハビリヨガに徹していた。

そして怠け者モードからやっと抜け出せたかも?と思った1月の10日ごろ、今度は首と背中の激痛に襲われた、ガーン。

これまた、ドロップバックの練習が原因。

先生のアジャストを待つ間があまりに長く、カラダがどんどん冷えていくのを防ぐために、一人ドロップバック&カムアップを10回以上バカみたいに繰り返してたのが祟った。

この日の練習後、会社で首と背中がどんどん痛くなっていき、こりゃイカン!と、会社のカフェに常設してある高級マッサージチェアで凝りを揉み解す。

だけどちっとも良くならず、これは機械ではなくニンゲンサマの手によるマッサージにしよう!と、地下にあるマッサージやさんへ。

ベッドに横になるや、背中の痛みが胸に回り、吐き気がこみ上げてきて、餌付きながらマッサージを受けるも、「これは医者へ行かれたほうがよいと思います・・・」と言われ。

早退するにも吐き気と下痢がとまらず、オフィスのトイレを行ったりきたり状態、なんだ、なんだ、なんなんだー?と八つ当たりしたくなった。

とりあえず、湿布・湿布・・・と薬局へ行くが、「暖めるべきか・冷やすべきか?」で悩み、店員さんへ尋いたところで「ワカリマセン」を意味する体のいい言い訳しか返ってこない。

これは筋肉痛なのか?なんなのか?それすら判らない、ただただ背中と首と胸の激痛,そして吐き気。

首のヘルニアをやった人の話を思い出し、なんか症状が似てるな~、ヤダナー、と思いつつなだれ込むように帰宅、ベッドへバタンキュー。

翌日、朝練に向かったが、以前のリハビリヨガをさらに上回るリハビリぶりで、そんなんだったら帰りなさい!って感じ再発(笑)

背中の激痛みは筋肉痛くらいに軽減したが、胸の痛みがまだまだ残っている、そして首がまったく曲がらない。ちょっと曲げると、ズキッ、オエッ!だ・・・この状態で、できる範囲での練習。

チャクラーサナやショルダースタンドはもちろんハナからリタイヤ、「顔を上に向ける」という簡単なことすら一大プロジェクトと化す。

うーん、人生はいろんなチャレンジを課してくるのだなー、とか
それでも動くカラダがあることに感謝だわー、とか
外側のポーズはちゃんとできないから、内側のエネルギーをうんと堪能しておこー、とか
なんかいろんなことを感じながらの練習・・・最近こんなんばっかだけど、そういう機会があって良かった。


アサナという外側ばっかりに囚われてる自分(いくら理性で打ち消していても!)が、結局その欲というか渇望・執着・エゴを、ポイッって手放すときがちゃんとやってくる。

この点で、私は恵まれてるのかもしれない。

なまじ身体能力が高く、アサナが「上手にできて当たり前」って感じだったら、こんな風に簡単に(簡単じゃないけどさ)はいかず、「もっと・もっと」のアシュタンガ・ビンヤサ・ヨガのトリックに陥っちゃう。

反対に言うと、私はアサナを追求して極めることなしに、早くも入り口チョイくらいでリタイヤした若隠居なわけで、ちょっとずるい、ショートカットしすぎかな?という気もする。

でも、結果的に、今の私にからは「欲」がすっかり抜け落ちちゃっているのがよく判ってて、楽チンというよりか、寂しい気分。


先週金曜日くらいから、やっと首の痛みが消えてきて、違和感だけが残り、なぜか以前より肩甲骨が動き始め、背中の奥の方でシッカリとした筋肉痛が発生、マイルドな腰痛も出てきて、なんだか私の体総動員でナニカが起こっている模様。

でも今朝は、久しぶりにショルダースタンドのシリーズが、ブランケットのサポートなしで、とりあえずヘンテコ姿勢ながらもかろうじてやり通すことができた、ワーイ。

今朝の練習中、なにかの折で、ふと顔を上げると、他の生徒さん達が黙々と練習をしている光景が目に入ってきて、なんかちょっと、ギクリとした。

普段練習中は周囲を見ないし、顔が向いても目の焦点を合わせないようにしてたから、気づかなかったのかもしれない。

彼ら・彼女らの中にあるひたむきさ・・・。

私はずっとその中にいたはずなんだけど、今はスッゴイ違和感を感じるくらい、醒めている。

今の私は、アサナの練習も、ヨガ自体も、なにも信じていないのがアリアリだ。

私はもうこの中には属していないんだなー、っていう、ちょっとした距離感というか、他の生徒さんみんなが、とってもとっても遠く感じた。



でも、ま、いいや。

いまはこれ。

ただ、そんだけ。


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照顧脚下  

もっと遠くへ!遠くへ!と

視点はいつも先の方へ向いていた。

そうやってずっとなにかを探してきた気がする。




自分の足もとを見つめることもなしに。




こないだ、灰色の雲に覆われた日暮れの海岸を散歩した。

空には輝く星など見つからなかったけれど

足もとには小さな星がふたつ。





ふーん、こういうことか、と、立ちすくんだ。




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気がつくと  

いつまでも、いつまでも、エンエンと降り続く雨は、一生続くのかと思うけど

あるとき突然、「あれ?雨が上がったのかな」、と空をみあげるときがくる。

おんなじように、いつの間にか、ずいぶんと癒されていた自分を発見するときがくる。

二度と光など見れないだろうと、かたくなに閉じていた心が、ほころんでくるときがくる。 

こないだまでは、ふらついてたけど、「あれ?今日は気がついたら、ちゃんと一人で立ってるよ」と、きょとんとする。

ずっと苦虫をかみ締めてた自分の口から、ポロポロと愛が言葉となってこぼれてくる。

同じことの繰り返しに思えた日々は、決して停滞じゃなかった、のかもしれない。

今朝も静かな練習ができました。

ありがとう。


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日曜日の朝練  

年末年始は、きっかり1日おきの朝練→エネルギー消費量半減。
しかしながら食べる量は倍増→体重増加。
よってカラダ重い→動きが鈍る→どんどんものぐさになってゆく~

という、だらだらスパイラルにハマってしまい、怠惰で淀んだタマス~!なお正月。

これはイカンと、土日に絶食日&フルーツだけの日を設け、簡易デトックス。

ふ~、やっと目が覚めた~!



ところで日曜日の朝練は、すごい気持ちよかった。

もう、ここで死んでもいい!って、本当に思った。



とにかく、今自分がやっているアサナに、心から入り込む。

そのエッセンスを一滴も洩らさぬよう、味わいつくす。




こんなにもアサナとの一体感を感じたことはない。

アサナに包まれ、抱かれ、守られ、安心して無抵抗になれる。




目先の、例えば次のアサナのことも考えない。

今のアサナだけに集中して、そこに「ある」ことを認める。




それだけのことなのに、なんでこんなに感動しちゃうんだろう?




その瞬間の全てのものが純度200%アップで迫ってくる。

世界はこんなに美しく輝いている。




そしてこんな単純なことが、なんであんなに難しかったんだろう?




目の前にある輝きに気付かず、自らで作りあげた苦悩に忙しくしてばっかりだった。

5%のできない部分に囚われて、95%のできることへの感謝と喜びを忘れてた。




なんかバッカみたいだー、と無性にゴメンナサイって気持ちになった。

えーっと、誰にだ?

うーん、うーん、とりあえずは自分にだな、きっと。





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年が明けて・・・  

明けましておめでとうございます。
皆様にとって、そしてまた生きとし生ける全てのものにとって
かけがえのない素晴らしき1年となりますように。

昨年のおしまい大晦日は、奥武蔵の竹寺でのアシュタンガヨガで1年の締めくくり。1年間のココロの膿やら、いろんなグチャグチャしたものを、みーんなチャラにしたるぜ!という感じで、スコーンと一発ブッチギリ!の爽快感でのヨガ納め。身体中はガジガジにこわばってて、首なんて回らないくらいなんだけど、楽しいから、まーいっか、と2歩も3歩も引き下がったプライマリシリーズで、てへへ。でもそんな外側のことよりも、もっともっと大事なものに対する溢れんばかりの暖かい気持ちが、そこにはあって。ヨガと出会えたことに対して、ヨガを通して出会えた人々に対して、ヨガから学んだ沢山の気づきに対して・・・本当に心からの感謝の気持ちを胸いっぱいに満たして、息吸って~アリガトウ、息吐いて~アリガトウ、ってやってた。ヨガの後はベジランチ、そして温泉でフニャフニャになって、夕方には逗子のおうちへ戻り、常にキャンドルナイト状態の我が家でカウントダウン。


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元旦は怖いくらい突き抜ける蒼い空の下、地元の山と海でノンビリ。別に、なんにもしない、ただそこにいるだけの時間。風と陽光と潮や土の匂い。ふんわりと空を舞うトンビをぼんやり見上げる。なんか、無駄なもんは、いらんわなー、とシミジミ思う。簡単がいいよ、簡単が。

2日の早朝から、鎌倉のマイソールでヨガ初め。なんとも混み混みのスタジオ・・・というか、レトロな和室で、湘南のアシュタンガ人口の増加をヒシヒシ感じた。やっぱり身体はガジガジで伸びない、そして重いのでドスンドスン。ビンヤサの浮遊感・・・は?なんですか、それ?って感じで。でも、まーいいや、と3歩も4歩も引き下がった練習をする。練習後は、鶴岡八幡宮へ初詣。空の蒼さは、ほんとうに吸い込まれそうで怖い。鳥居の赤とのコントラストが目に眩いばかりだ。

甘いもの好きになってしまってから、お菓子は手作りに徹している。だって、添加物とかの余計なものを気にせず、バクバク食べたいじゃん、やっぱり?とゆーことで、3日はほぼ1日中キッチンで、チーズケーキやらショートブレッドやら、ミューズリーやオートミールやナッツたっぷりのクッキーやら、ついでにピタパンとか作って過ごす。作るのも楽しいし、食べるのも楽しい。あれ、ダイエットはどうした?

夕方にはいつも、逗子海岸まで走って日の入りを見に行く。冬の夕焼けは美しすぎて神々しいくらいだ。対岸に聳える富士山のシルエットも圧倒するものがある。この「サンセットタイム」には、人々がゾロゾロと集まってきて、みな一様に海岸に佇んで陽の落ちてゆくのをペンギンみたいにボーッと見つめている。そのペンギン化した人々のシルエットを眺めるのも、なんか楽しい。もちろん、熱い紅茶とショートブレッドを持参してパクつきながら~!の極楽タイム、冬の海岸の楽しみです。


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4日は、またまた鎌倉の早朝マイソールへ。ここはDoor to Doorでなんと20分弱・・・こんだけ近いと楽チンだなー。普段の九段下までのDoor to Door2時間とは雲泥の差だー。でもその分、起きたてホヤホヤすぎて、ウンコも出でない状態での練習だよ(笑)。連日の食べ過ぎと練習不足もあって、日に日に身体が重く邪魔になってきてます~!今朝の頚椎周りは、ついにガチーンと固まりきって、上を向くことも、左右にクビをまわすこともできず、10歩くらい引いた練習に終始しました。大事をみてチャクラーサナ、ショルダースタンド、この辺りはパス。賢明な判断である。

この日はいつもIYCで一緒に練習しているCちゃんとRさんが、遠路遥々鎌倉くんだりまで5時起きして参加。しかもCちゃんは愛犬4匹連れだー!練習もそこそこに、4匹の犬を連れて逗子海岸、被路山公園へお散歩、ゴー!このワンちゃんたちは、ワイマラナー1匹+おっきいプードル2匹+ちっこい犬1匹で、ワイマラナーもプードルも灰色でデッカイので、これだけ一緒にいると結構迫力ある。しかし、ワンちゃんたち一緒のお散歩は楽しいねー。通りすがりの人々がすごいフレンドリーに話しかけてくるし、別の犬連れの人達との交流もできる。ふーん、面白いやー。コドモのようにワーワーキャーキャー遊びまわって泥だらけ。いいなぁ、犬のいる生活って。Cちゃんアリガトウ、またワンコ連れて遊びにきてね。


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そんなこんなで、あっというまにお正月が過ぎてゆくけど、こういう、なんでもない普通のノンビリさって、いいもんだ。大げさじゃない、イベント的なものじゃない、日々の普通のモノゴト・・・そういうものを、もっと大事にしていきたいなぁ、と思った次第。



今年の目標:

「Dont't think, just do it」


もしくは


「考える時間があったら、感じる時間に当てよう」




今年はアタマから、観念の世界から、もっともっと離れていきたいです。





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アシュタンガと怪我、そしてリハビリと陰ヨガTTC (2)  

「・・・というわけで、骨格構造により身体のこの部位にこのようなコンプレッションがある場合、身体のこの部位がここまで曲がる、つまりこのようなポーズの完成形をとる、ということは絶対ありえない。これが、骨のコンプレッション、つまり私達の身体の物質的限界であり、筋肉の緊張や硬さによるテンションとは、はっきり区別をしなければならない」

陰ヨガTTCの講師であるポール・グリレイ氏は、空気に溶けてゆきそうな仙人ヨギというよりは、体格の良いスキンヘッド野郎で、どちらかというとジムでウエイトトレーニングをしている腕っ節の強いオッサンみたいだ。アシュタンガやその他のヨガを30年やってきた、というから、20才でヨガを始めたとしても50歳・・・しかし、30代前半って言っても通用しそうなくらい、ピチピチのプリンプリンのツルツルで若々しい。

コースが始まり、簡単な陰ヨガとは?の説明が終わるや否や、ポール氏はスライドで私たちに人骨の標本をズラー!っと見せ始めた。私たちの骨の形・作り・構造、というのは、どれだけ個人差があり、その差の幅がどれほど広いのか、というのが、これでもかー!と続く。同じニンゲンなの?というくらいの骨の違いに唖然とするが、これらの見本は全て「標準=ノーマル」の中でのバリエーションでしかない。つまり、奇形というバリエーションが、この外側に広がっているのだ。このスライドは彼のHPでも見られるので、興味のある方はコチラ
http://www.paulgrilley.com/paul%20bonez%20web/Index.html

この骨構造の個人差を大前提とした上で、ポール氏は冒頭に記したような、コンプレッションによる身体的限界について、何度も何度も繰り返す。

単純な「両腕を頭の上に上げる」という動作も、肩周りの骨構造によっては、腕が180度真上に上がりきる前に一部の骨同士がぶつかり合い、それ以上は上がらない人もいる。この骨同志のぶつかり合う限界点をコンプレッションという。この場合、いくらなにをどう頑張ろうと、物理的にそこまでの動きは不可能だ。すなわち、そこまでの動きが「可能」な「骨構造」を生まれながらに持ち合わせていない、というそれだけの単純な理由からくる絶対的な事実なのである。

一方、骨構造的にはコンプレッションがなくても、肩周りの筋肉が硬ければ、その腕は180度真上に上がらないこともある。これはテンションといって、ストレッチなどで柔軟性を高めることによって解決は可能だ。ヨガを始めたばかりのころは身体が固かったけど、練習を重ねることでテンションが改善され、身体が変わってゆく、できなかったポーズが出来るようになってくる・・・というのはすなわち、その動きが「可能」な「骨構造」を生まれながらに持ち合わせていたから、そこまで進歩できたのである。

それでは、具体的にどういうことかテストしましょう、と、生徒を例にカラダの部位でコンプレッションが発生するポイントの個人差をチェックする。仰向けに寝て、足をそろえて上に上げ、第三者の手で足をカラダの方へ下ろしていく。どこまで足が下りた地点で股関節のコンプレッションが発生するか?つまりどこまで足を上体の方まで下ろせるか?のチェックだ。このコンプレッション発生ポイントが早ければ、パチモッタナサナで胸やお腹をペタンと脚にくっつけることは、ゼッタイできない。ハムストリングスが硬いからじゃない、その動きが「可能」な股関節の骨構造を持ち合わせていないからだ。

こういったコンプレッションの発生地点のチェックが、毎日のように行われた。このTTCに参加しているのは、各国からのヨギ・ヨギニ、そしてその大半がインストラクターで、一定のレベル以上の身体能力を持ち合わせている。にもかかわらず、この「骨構造の個人差の幅」は、「ニンゲンと別の生き物」に匹敵するほど、とてつもない差があることに驚かされた。たとえば、大腿骨の内転のチェックで

正座から割座へ移動する→ここで限界(=コンプレッション)が発生する人が出る(ちなみに私はココ)

更に割り座で外側に出た足のかかとを曲げる→ここで限界が発生する人が出る

更にそのかかとを曲げたまま脛を前方へ動かし、膝を90度にする→ここで限界が発生する人が出る

と、段階を追ってチェックしていき、一番最初に限界が発生した人(LOOSER=敗者)と、最後まで限界が発生しない人(WINNER=勝者)を、生徒の中から選出し、ステージで「この両者の骨構造は、どのように差があるのか、そして、それが特定のアサナにどう影響しているのか」を検証する。

WINNERにとって、その特定のアサナは痛くも痒くも辛くもなく、ヨガジャーナルの表紙か、もしくは中国雑技団のようなビックリアサナを軽々ととることができる。しかし、これは身体のどの部位にも効いてないということでもあり、どこもストレッチされてない、ユルユル・ガバガバ状態だ。

一方LOOSERにとって、この特定のアサナは、どれほど練習を積もうと、どれほど頑張って自らを痛めつけようと、呼吸をしようが、ムーラバンダを効かせようが、完成形というカタチをとることは絶対にできない。なぜならば、骨同士のぶつかり合い(=コンプレッション)によって、その動きが途中で妨げられているからだ。しかし、見た目の完成形にこだわらなければ、身体の部位にしっかり刺激やストレッチがかかり効いているのである。

私は最初、この「WINNER & LOOSER」というエゲツナイお遊びコンセプトに腹が立った。だって、ヨガにWINNERもLOOSERもないでしょ?というか、そういう比較や競争自体がヨガからスンゴク遠いところにいるじゃん?ってね。それでもポール氏は「おーし、君こそがWINNERだー!」とか、「ううむ、残念ながら、キミこそがLooserだ・・・」とか、結構容赦ない。

ひとつの例として、足首の外転の「勝者」と「敗者」が選ばれ、全員の前でその身体差(骨構造の差)を見せていた時、ポール氏が物凄い足首の外転を持つ「勝者」へ、「では、ちょっとこういうポーズをしてみて」と、ムラバンダーサナ(足首をトンデモナイくらい後ろにねじってその上に座るポーズ)をやらせてみせた。

となりでその様子を見ている「敗者」は、このポーズで膝を靭帯断裂するほどの酷い怪我経験がある。「敗者」になってしまうくらいの制限された骨構造を持つ彼女は、どれだけの努力と苦労をしてこのポーズを練習し続けてきたのだろう。どんなに頑張ってもできない、それどころか怪我までしてしまう辛さを、ずっと味わってきたに違いない。

その彼女の目の前で、何の苦労もなくヒョイヒョイっと、そのポーズを言われるがままにこなしてしまう「勝者」は、このポーズは生まれて初めてらしく、周囲からスゴーイ!と感嘆されて無邪気に喜び笑う。そしてポール氏が「じゃあ、両手でナマステをして神妙な表情をしてみて・・・」って「勝者」へ指示する・・・!あたかも「私は非常にスピリチュアルに高尚であるがゆえに、こんなポーズができるのだー、オーム」って言ってごらん、という皮肉っぽいジョークとして。

「アシュタンギ達は毎日毎日ウジャイ呼吸をフーフーやって、自分たちの身体を酷使してこんなムチャなポーズの練習を何年も何年もやっているけれど、この彼女は、今日ここで生まれて初めてこのポーズをこんなに簡単にやってしまう!なぜだか判るか?・・・・そう、そういう骨構造を持っているから、それだけのことなんだ」

ポール氏はそう言って、「その先の答えは自分で見つけなさい」とばかりに、肩をすくめて次の話題へ進む。

この先こうやって、ケーススタディを何度も何度も目の当たりにする。でも答えは決して提示されない。大事なのは、そこから、私たちは何を見出すのか?だからだ。

実際ポール氏のTTCは、わりと不明瞭な流れでスタートした。fool proof的資料マニュアルは一切ないし、流れ自体が段階を追って理解を上乗せしていくタイプではなかった。よって、私たちは模索しなければならない。この模索の過程でいろんな疑問や気付きが生まれるべくして出てくる。そして、「あの時の疑問」が、いまここで「クリック」するオオオー!という体験・・・「ああ、だから、あの時ポール氏は、あんなことを言ったんだ~」とかいうのが立て続きに起こって、3日目くらいになってやっと、これは、スゴイな、と思った。ポールさん、アナタ種まきがスゴク上手です~!

陰ヨガなのになんで解剖学ばかりなの?
なんでコンプレッションvsテンションにそこまでこだわるの?
もっと経絡とか、タオ哲学とかの話してくれないかなー?

というのが、最初の私の反応だった。私は、こんな骨構造の個人差の話よりも、陰ヨガの思想や、各ポーズの効用とかを知りたかった。だからこのTTCに参加した。確かにポール氏は解剖学のWSも沢山やってるし、先日DVDの日本版も発売になったばかりだし、その宣伝も兼ねてるのかな?なんて穿った見方もしたりした。

でも、この繰り返し繰り返しインプットされる「骨構造の差」が、つまり「個人の数だけポーズのバリエーションがある」という陰ヨガの基本姿勢に繋がる。ポーズのあるべき姿=「見た目」ではなく「効果」が陰ヨガの目的である、と理解できる。なぜならば、経絡を刺激して気の流れを整えることこそが、陰ヨガの向かう方向だから、「効果」が大事なのだ、と納得する。

意志と筋肉でコントロールする陽ヨガポーズとは反対に、能動的に働きかけず、意志からもエゴからも離れて、ありのままを観察する陰ヨガの姿勢は、とてもセラピー効果があるし、とても瞑想的だ。そして最も大事なのは、それもこれも、陽ヨガがあってこそだという、逆説的にもなりうる事実。実際、陰ヨガはそれだけでは「不完全」である、とポール氏は何度も何度も言っていた。

そんなこんなを、単純に「はい、これが陰ヨガです、どーぞ」って、答えを渡されるのではなくて、コース全体を通してやっとこ自分で理解してゆく、そんなTTCだった。

私は個人的に「骨構造の差」からくるアサナの限界、というのが、判ってはいてもショックだった。
「ポーズの完成形は解剖学的な個人差を考慮すればまったくのナンセンス!」
「その人の持ち合わせている骨構造によって、一生できないアサナはある」
という陰ヨガの基本概念自体が、アシュタンガヨガから180度反対側を向いているのだけど、ポール氏自身が過去アシュタンギで、このTTCの開催場所が日本のアシュタンガの総本山、私は日々のアシュタンガの修行で泣きべそかいてる最中・・・というのが面白いなぁ、と。

アシュタンガヨガでは、とにかく「練習あるのみ!」と、ひたすら練習する。毎日毎日バカみたいに練習する。Practice, practice, practice, then one day will comeというのが、アシュタンギの合言葉なくらいで。私は個人的にこの言葉は視点が未来を向いてて好きじゃないんだけど、でも、「One day = できないアサナができるようになる日」だと思っていたし、それをよりどころにして辛い練習を頑張っていた、っていうのも事実だ。でも、このポール氏のTTCを受けて、ひとつの大発見をしましたよ、私。

このOne dayというのは「できないアサナができるようになる日」ではなくて、「毎日毎日練習して、やっと気がついた、私の骨構造はこのアサナを可能にはしない。ここが私の限界なのだ。それを認めて受け入れよう。ここで戦うのはもうやめよう。」って気がつく日なんだろうなぁ、って。

そうだよ、現実ってそんなもんじゃん。ちっともフェアなんかじゃない。だから私たちはいつだって、as it is そうであるがまま、を受け入れるための、戦いを放棄して降伏するための修行をしているんだから。いや、これはヨガだけの話じゃなくてね。

なんてことを、身体中Looserな可動域しかない自分に愕然としながらも、荻窪のミュージアム東京のマットの上で、ふふふ、と笑いながら、どんどん気持ちが楽になっていくのを感じた。


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アシュタンガと怪我、そしてリハビリと陰ヨガTTC (1)  

先々週(12/17の週)は毎朝のアシュタンガヨガの練習が、すっかりリハビリモードだった。

ヨガの練習中に腰を痛めてしまい、そこをかばい埋め合わせをする身体のほかの部位への負担がピークに達し、一気にガタガタガターッ!と全身にキタのが、その前の週末のこと。

慌てて駆け込んだ整体の先生から「ヨガ禁止令」が出された。でもアシュタンガヨガを知らない人から見たら、毎日の練習そのものが過酷なアクティビティだしなー、ナンダナカー。

なので、タパスな私としては(笑)、ヨガの痛みはヨガで直すぜ~!と鼻息も荒く、「無理をしないヨガを毎日続けよう」とマントラのように唱えつつ、毎日スタジオに向かった。

身体を動かして「鋭い痛み」「耐えられない痛み」を感じたら、即座にそこから抜けるようにした。

こわばった部位にストレッチされているようなストレスを感じたら、呼吸を使って和らげるようにして、そこに留まった。

毎日毎日試行錯誤していくうちに、どこをどうすると、どんな反応があって、どのような感覚が生じるのか、が見えてきた。

フラストレーションが沸き起こってきて、堪らなくなる感情面との折り合いも、何度も何度もつけてきた。

私が毎朝通っているのは、アシュタンガヨガのマイソールスタイルのクラスなので、周囲の生徒さんは皆とても真剣に与えられたポーズを、決められた完成型で、決められたシーケンスで、120%の集中力でガシガシ練習している。

そんな真剣モード集団の中で、スリヤナマスカラすら簡易ポーズや予備ポーズでしか行えない、リハビリモードの自分が正直情けなかった。

別に他の誰かの為に練習をしているんじゃない、って判ってる。
見せるためのヨガをやってるんじゃない、って判ってる。
だけど、いくら打ち消しても、自分の中に「他人の目を気にする」自分をハッキリと見つけてしまう。
本来の完成型ポーズなら、「あそこ」にもって来るべき足先が、今日は「こんなとこ」まで動かすことができない。
鋳型からはみ出している自分がしっかりとここにいることの自覚。
そんなリハビリ状態なら自宅か他のスタジオでやってちょうだい、って周囲からの無言のメッセージもしっかり受け止めた。

アジャストのひとつも受けずに、治外法権と化した自分のマットの上で、完成型を目指せないポーズを黙々と、自分の身体のひとつひとつを「よしよし」なだめるように進めていく。
マインドが、エゴが、どんどんと色んな感情を呼び起こす・・・悲しみ、寂しさ、怒り、後悔、羨望、情けなさ、憤り・・・そんなこんなが、弱まったり強まったりしながら、空をゆく雲のように私の中を流れてゆく。

感情の嵐や、身体の緊張や痛みといった、ワーッ!っと圧倒される状態から、フッと抜ける瞬間、というのがあるけど、今回のリハビリでは、それを沢山経験した気がする。

いろんなものがたくさん抜けて、なんかスッキリしたくらいだ。腰の痛みも、全身の痛みも、かなり軽減して、変な固さや緊張が取れてきた。ココロの嵐も、台風一過みたいに、スッキリ爽やかさんだ~、と感じ始めたあたりで先週を終えた。

そんなリハビリ週間を経た後、ちょうど陰ヨガのTTCがスタートしたのとムーンディもあり、その週末から翌週(12/24の週)アタマにかけて3日間アシュタンガの練習からは離れた。これは、抜群のタイミングだったなー、と、今となっては思う。おかげで、よい休息がとれて、心身ともにリセットができた。

アシュタンガ(陽のヨガ)で怪我をして、リハビリに入り、一息入れたタイミングで陰ヨガのTTC・・・こんな絶妙のタイミングでモノゴトが流れるなんて、これはもはや神様の思し召しとしか思えません。

陰ヨガのTTCに関しては、ちゃんとまとめて記したいので、ここでは割愛しますが、前述したように、これまで「なんか迷っていた」自身のヨガ修行の方向性がハッキリとして、そこに揺ぎ無い信頼と自身が見えてきた、って感じです。

簡単にはしょって言うと、これまで自分がアシュタンガヨガでココロと体をガジガジにしてやってきているアサナ重視の修行と、瞑想や自由なフォームのアサナ、プラナヤマ、チャンティングといった私がココロのよりどころとしているヨガとの乖離、分離。これが悩みの震源地だったけれど、ここがクリアになった。

最初から気付いてはいたけれど、ここ半年くらいになって、やたらとあからさまに、カラダもココロも周囲の人達の大多数が、「アナタにはアシュタンガヨガは向いてない」と大合唱を始めてて、私自身も毎朝の練習の中で、「なんかこれは、違うのかな?」って思いはじめてた。

毎朝のスタジオの中で、「私は身体的に周囲とかなり違う、スタートラインからして相当の落ちこぼれだ~」「どんなに頑張っても、他の人達のようにできない~」と相当に落ち込み、僻み、自己嫌悪に加速がかかっていくスパイラルな日々。

先生の生徒に対する指導も、アサナが「できる人、もしくはできる可能性のある人」を中心に、アテンション濃度が変わっていく。つまり、いつまで経っても成長が望めない落ちこぼれサイドの場合は、指導もアジャストもスルーされ、基本的には放置状態・・・きっと、あとは自分で進みなさいよ、ってことなんだろう。

いつもつきっきりで指導してもらっているサラブレット系生徒さんたちを横目で見やりながら、「指導した分、生徒が成長していく」のを見届けられるというのは、先生にとってのやりがい度UPに繋がるわけで、そりゃ指導に力が入っても当たり前だろうな、とは思う。

でも、反対側に放置されてる落ちこぼれサイドとしては、取り残されたようで結構キツイなぁ、別に怠けてるわけじゃないんだけどなぁ、どんなに頑張ってもできないんだもんなぁ、と思いつつ、その自分の心持ち自体が、スッゴク幼稚で馬鹿馬鹿しくて、周りと比較することも、評価を期待することも、ちっともヨガ的じゃないし、その判断基準が「アサナの完成形」っていう外側の鋳型に固執している自分に虫唾が走り、大笑いのひとつでもかましたくなる日々が続いた。

そんな矢先の怪我だから、あ、これはサインだ、って思った。「アサナの完成形」という外側の鋳型が判断基準にになること自体がありえない状態で、なんだか、意味なくザマーミロ!って気になった。ああ、私って相当にアナーキーだな。これを機にアシュタンガヨガとは、離れていくんだろうなぁ、って思った。だから陰ヨガのTTCで、アシュタンガヨガとは反対側へ向かっていくのかな?って、思った。本来のココロのヨガに専念できるのかな?って期待した。

迷っているときって、ついつい「変化」をもとめてしまうんですね。
いちばん簡単なソリューション、しかし、それは対症療法でしかない。

そんな感じで、陰ヨガTTCへ突入しました。この先は次回に続きます。


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