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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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インドの記録  

元々のブログに帰していたインド日記

ちまちまと、こちらのヨガブログへコピーしていましたが、
なんだか非常にメンドウになってきて、挫折中。

もし興味のある方は
お手数ですが
こちらのリンクからどうぞ。


2007年2月 ゴア・マイソール


2007年3月 マイソール


2007年4月 ハンピ・アムリッツァ

2007年5月 ハリドワ・バラナシ・ブッダガヤ


2007年6月 コルカタ・ダージリン


とりいそぎ以上です
ンガトト


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ホーリー・フェスティバル  

春の到来を祝うお祭りの日。よって、シャラはお休み、練習ナシ。

人々はカラーパウダー(色粉)を掛け合い、街中は体中カラフルに変色した人々(牛も羊も・・・)でイッパイ・・・かと思いきや、ここマイソールでは肉体労働者階級(というくくりがあるのかは疑問だが)の若造たちだけが、集団となって楽しそうに色粉だらけにして大騒ぎしている、って印象だ。

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このホーリーは、どちらかというと北インドで盛んな行事らしい。ロンプラ(Lonley Planet・世界で一番読まれているガイドブック)には、「この日、観光客は外を歩かないように」と書かれてたけど、少なくともここマイソールでは、阿鼻叫喚の町をあげてのお祭り騒ぎってわけじゃなさそうだ。聞いた話では、現地人が観光客に色粉をつける際には、ちゃんと「やってもいいか」事前に了承をとるみたい。なんか、カワイイ。

私はオデコにだけ、可愛らしくチョコンと色粉をつけられただけ。ゴクラムのココナッツスタンドを通り過ぎると、顔中カラフルに変色した、超人ハルクみたいな知人友人を発見。ははは。

午前中に恒例のグリーン・ホテルでランチ&オーガニックマーケットに行った以外は、なにもせずノンビリと散歩などして1日を過ごした。そのせいか、自分がとってもゆるやかで落ち着いている。街を行き来する人々が、やたらと楽しげなのが微笑ましい。こっちのココロまで暖かくなってくる。ここがインドだからどうの、っていうんじゃなくて、なんか、もっと深いトコロで、「ニンゲンってイイナー」っていう感情に包まれた。

こんな単純な幸福感に酔いしれて家へ戻る道すがら、見上げる空には、スコーンとでっかいお月様。今日も一日ありがとう、ナマステー :)

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チベタン・ビレッジ   

ムーンディ(満月)でシャラはクローズ、よって練習はなし。

Bylakuppe(バイラクーペ)というチベットを追われた難民が住居を構える地へ行ってきた。ここはマイソール市内から車で2・3時間ほど西へ向かったあたりに位置し、Madikeri(マディケリ)というチャーミングな町のちょっと手前にある。

私はこれまでダラムサラ以外にもこのような地があるとは知らなかった。相当に無知である。あまりに恥ずかしいので、ちょっとネット検索をしてみると、中国の迫害から逃れ、祖国から亡命してきたチベット人達が居住を認められた区域は、インド国内に30箇所ほどあることが判った。更にそのほとんどが、なにもない荒れ果てた広大な土地で、初代移住者は相当の苦難を味わい、異なる気候、風土病や野生動物と闘い、命を賭けて開墾していったらしい。このように祖国を追われたチベット人が作り上げたインドの中の「チベット」は、世界中どこにでもある「China Town中華街」と同一視してはいけない気がするし、実際、その有様はまったく違う。

バイラクーペは、やはりだだっ広く何もない土地のど真ん中に、4つのキャンプ(居住区)といくつかの寺院が突然ドカンと存在している。キャンプとキャンプの間や、寺院との間は徒歩では回れないくらい広い。そして居住区も寺院も、キッチリと区画内を外部と分け放つためか、しっかりと壁で囲まれている。「こちら側」と「あちら側」の線引き。この光景は確かに、現地と同化しつつも自文化をキープするチャイナタウンとは別物なのだと、ヒシヒシと思わせる。

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ひとつの寺院へ一歩足を踏み入れると、途端にチベタン・ワールドとなる。修行僧たちが寝起きを共にする建物、極彩色まばゆい壮麗なマンダラ画、神々しくもオドロオドロしい神々の姿、五体倒地でお祈りをするチベット人、オムマニパドメフーム、遠くで響く荘厳なチベット音楽の調べ、あどけなさの残る年端の行かない修行僧、メメント・モリ、芝生の広場でくつろぐ家族、そしてパシパシと写真撮影に余念がない私たち観光客。

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チベットに対する興味は、子供の頃に読んだ中沢新一で培われた。バルドゥ・トゥドルゥ(死者の書)に表される死後の世界と、最近の臨死体験研究との相似点。生をより生きるために、死を恐れることなく見つめる姿勢。ルン(=プラナ・気)という概念と、生と死。例えば、目を覆いたくなるほどにグロテスクな「死に至る~死後白骨化するまで」を描いた絵画、「われわれの肉体は単なる衣装である」と悟らざるを得ない、富も地位も名誉も無意味な「完全なる現実」である肉体の死の有様が、死後の醜く腐敗してゆく過程を綿密に、容赦なく描きだされている。そこにピーター・グリーナウェイの「ZOO」のセンチメンタルさなどを重ねちゃいけない(笑)。また、たとえば緻密なマンダラ画の中に見られる世界観。チベットの信仰は厳しい気候風土に育まれ、苦難の歴史によって更に強固に培われた、生そのものであり、つまり死でもあり、そして魂の流転であり、それはアルファでありオメガであり・・・要は世界そのものだ。近代化と共に限りなく西洋化し、なまなましい生も死も隠蔽して、表面的な物質的享楽に価値を見出す生活が常の私たち「物質的先進国」住人が、ハッ!と感銘を受け、こころ惹かれるのは不思議じゃない。

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そんなアレコレが頭の中をグルグルし、圧倒されるようなチベット・ワールドに目を回す。ひとつの小さな寺院は、小さな螺旋階段で2階、3階、4階・・・と昇ってゆける仕組みになっている。最底辺の壁を囲む地獄絵図ワールドは相当にグロテスクで、そこから1階ずつ昇るごとに、聖なる世界へ変容してゆく。あ、この建物は曼陀羅を立体化したんだ、と気づいた。ピラミッドのように、上へ上へと上昇して、聖なる天へと向かう感じ。もともと曼陀羅の世界観ってのは、2次元に収まるもんじゃなかったに違いない。

この日は運の良いことに、寺院の広場でお祭りっぽい催しがなされていた。荘厳なチベット音楽に乗せて、さまざまな舞踊が繰り広げられていた。広場の周りを覆いつくす家族連れたち、まるで運動会のような、のどかな光景。同じモンゴロイド同志なせいか、チベット人たちの風貌にはついつい親近感を感じてしまい、なんだか妙にホッとする。

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文献やメディアの中のチベット、インドの中で知るチベット。でもまだ私は、本当のチベットのことはなんにも知らないまんまだ。

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感覚刺激処理許容量オーバー  

2回目のレッドクラス。またまた出遅れて、自分の場所確保に難儀する。あーん、またドアの外かなぁ・・・とキョロキョロしていると、運よくKさんが「ここ空いてるよ~」と声をかけてくれたので、マット間隔0.8mmくらいで、ムリムリ入れさせてもらう、サンキューです。最初と最後のマントラはグルジが唱えたけど、レッドのカウントはシャラート。彼のカウントはゆっくりで気持ちよい。どのポーズで「シゴキ」が入るのかは、前回で判ったので、結構余裕で取り組めた。でも、マリーチD、スプタ、ガルバは通常もっともっともーっと時間をかけてポーズに入るので、レッドだとついてゆけませーん。しかし、隣の人とぶつからずにはいられないほど、ギュウギュウにひしめき合ってのレッドは、そのうち慣れてくるんだろうけど、今のところは、うーん・・・シンドイ、というか、怖い。今日は一番前だったので前方に人がいなかったから良かったけど、自分の前方が巨人男性だったら、いつ顔面にケリが入りやしまいかと、ビクビクものだと思う。

練習後は並んでグルジへご挨拶。今日はちゃんと「チュー」と「ハグハグ」できた:)

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ところで最近の瞑想が、また変化してきている。インドに来てから五感に入ってくる刺激・情報が変化しているわけだがら、当たり前か、とも思う。ビジョンが知覚される頻度が増えたのが、一番の変化だ。どちらかというと、皮膚感覚、空間を捉える感覚、バイブレーションや聴覚にくることが多く、あまり視覚的な部分は発達していないので、ビジョンはたまーにしか見ない。自分で想像しているイメージ図とは別に、自分でも制御ができないビジョンが、黒い幕に開けられた小さな穴からのぞき見るように現れるのは、面白い。やはり、「インド的なるもの」っぽいビジョンばかりだ。多分インドに来てから、あまりにも沢山の視覚的刺激が多すぎ、それを消化しきれず、瞑想状態の深くリラックスした脳状態で、ここぞ!とばかりワワワワワー!と処理活動が始まっているのではなかろうかと。と、同時に、このサードアイ(第三の目)に位置する、サイキック・ビューイング・スクリーンでのビジュアライゼーション練習(=Chidakasha Dharana)を、先日本(ビーハースクールのシリーズ本のひとつ「Sure ways to self-realization」Swami Satyananda Saraswati著) を手がかりに試してみたからかもしれない。このChidakasha Dharanaは、Clairvoyance(透視能力)の開発効果もあるというので、以前オーラを見て以来、「ちょっと、ここは開発してゆきたいなぁ」という私の愚かな煩悩でイッパイのエリアなのだ。いずれにせよ、日々の瞑想も、アサナの練習同様、「これから、どんなんなってゆくのかなー?」と、非常に興味深いです、ワクワク。

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ちょっと、お腹がユルくなってきましたねー。軽く下痢です。ちょと様子見しておきましょう。

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マイソールという体験   

シャラでの生徒数がどんどん減ってきている。そろそろみんな国へ帰る時期らしい。着いた当初はシャラ内は生徒でイッパイ、順番待ちしてやっと中に入れる、って状態だったのに、もう今じゃスカスカ。人によっては、指定された時間よりも早く来て練習をスタートしているようだ。サラスワティからも、次からは早めに来なさい、と言われた。

練習そのものは、かなり落ち着いてきた。カラダ自体よりも、ココロと自分の内部エネルギーが落ち着いてきたんだと思う。でも、東京で練習している時よりも、浮き沈みの差が激しい・・というか、それに気づけることが驚きだ。例えば昨日のエネルギー枯渇状態がよい例で、そのときの自分の状態が、ああいう形で練習に如実に現れる。もしこれが、感覚を半ば麻痺させてる多忙な東京生活の只中だったら、そういった自分の状態に気づかず、普通に無理して練習していたんじゃないかな。

誰と話しても「マイソールでの練習は質が違う」と口をそろえて言が、それを上手く言葉で説明ができない。だけど、それを体験している当人達にとっては「あー、うーん、そうなんだよねー、わかるわかる」といった、その体験そのものが共通言語として存在する。ヨガは知識をアタマで理解するのではなく、実践によって立ち起こる変化を、自分が実際に経験してゆくことだ。そういった意味で、この「マイソール体験」というのは、私がいくらここで偏執狂的に言葉を連ねたところで、なにひとつ伝えられない。なんかそれがもどかしい。

ところでTina’s PlaceでDavid Byckというアメリカ人男性の「It’s a long way to the floor」という本が積まれていたので、Tinaに聞くと、ここによく来ていたお客さんが、自分のヨガ体験について書いた本だという。裏表紙の紹介文を読むと、もともとウェイトリフティングをやっており、ジャンクフード大好き、バリバリのプライドとエゴで競争世界を歩んできた、典型的なA型人間(血液型ではなくAchieve。目標達成に意義を見出すタイプの意)のアメリカ男性が、「ふん、ヨガなんて女子供のやることだよなー」と思いつつも始めたアシュタンガ・ヨガによって体験した、様々な変化や気づき、肉体と精神と魂の成長の過程が描かれているらしい。これは、ちょと面白いですねー、と思い早速購入。すごい判りやすい文章だし、短いのでサクッと読み終える。



私自身もかなり「競争意識」が高く、エゴとプライドで生きてきた(・・・今もそうだけど)ので、共感するところかなりアリ。また、私はヨガをやる前に8年くらいジムでウェイト・トレーニングをしてきた経験や、バリバリの会社で虎視眈々と昇進していった経験から、「目標設定=>頑張る=>目標達成」のプロセスが「イコール=正しい」だと、信じてきた。つまり、なせばなる、努力は報われる、結果は「イコール=どれだけ頑張ったか」だ、という信条。なので、アシュタンガヨガを始めた頃は、「よし、あと何ヶ月でヘッドスタンドを制覇するぞ!」とかココロに決めて、自宅で特訓していた馬鹿者だったので、この作者との共通点がたくさんあって苦笑い。結構みんな似たような課程を経てきいるんだなー、ってね。ちょっと英語がわかれば充分読める1冊なので、興味のあるかたは是非。ただ、そんなに美文ではないし、異文化に対するちょっとした誤解があったり、深遠さに欠けているので、書物として、というよりは、同じアシュタンギのブログを読むような感覚で、どうぞ。

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