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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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無理せず、少しずつ  

先週の土曜日の朝、自分の涙で目が覚めた。



窓からは眩い光が差し込んでいて

「ああ、今日はよい日だなぁ」と、ぼんやり思った。



家族の前ではあんまり泣いたりしなかった。

なんか、ずーっと我慢して強がってばかりいた。

弱みをみせることが屈辱だと

そんなヘンテコなプライドが私の中にはあった。



この日は、なぜだか、涙で顔をグジュグジュにして

台所で洗い物をしていたお母さんに

そのまんまの「辛くて哀しいヘタレの自分」をさらけ出した。



子供みたいにヒクヒクしゃくりあげて

でも、恥ずかしいとか、ミットモナイとか

そんな感情は湧きあがってこなかった。




むしろ、取り繕わずにいられる安心感

ずっと忘れていた、暖かさに包まれている心地よさがあった。




詳細はあまりにもプライベートなので割愛するけど

これまで私が抱えてきたココロの重ーい荷物を

母にシェアしてみたら、なんのことはない

そんなことは先刻承知ですよ

とアッサリ言われた。

すごいな、母。



なんだ、そんなものか。




ココロの奥にしまいこんで、我慢して、強がって、取り繕って、

ギリギリのエッジでかろうじてバランスをとってた自分って、

なんだったんだろう?

そんなことを思ったら、笑えてきた。

そして、とっても楽チンになった。




なんか、こんな風に、突然、しかもすんごく自然に

自分の内からやってきた「変化」が、ここにはあって

それを驚愕しながら見守っている自分も同時にここにある。




多分、外部にとってはなんでもないこと

でも私にとっては、すごいギフトのような出来事。




そうか、こうやって変容してゆくのだな。

アタマや意思じゃないんだ、ほんとうに。
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こころのおそうじ  

おとついの土曜日に吉祥寺でのゴエンカ・ヴィパッサナー1日コースに参加してきた。昨年12月の初めての10日コース終了後、初めてのちゃんとしたコース参加である。

一応、毎日の瞑想はずっと続けてるが、ヴィッパサナよりはアーナーパーナー瞑想が多くなってきてたし、メッタ・バーバナなんてとんと忘れてました、というのが現実だ。本当は今年7月に日本に帰国した際、まっさきに10日コースへ参加する予定だったのだが、なんとフジロック・フェスティバルとダブルブッキングをしており、泣く泣く断念。次回参加は11月20日からのコースと、かなり間があいちゃってたので、ちょうどよいタイミングだな、といった感じ。

こうやって書くと、「真面目な生徒さん」っぽいけれど、実を申せば実家に居候中ゆえ、家で瞑想していても邪魔が入るのが悩みのタネの現在、長時間瞑想できるスペースを求める日々なわけで。平日朝は1時間早くマイソールクラスへ行き、周囲がパタン・パタンとプライマリー・シリーズを練習している間で瞑想。週末は公園へ行き、木陰にゴザを敷き瞑想。毎週日曜日朝はドネーションベースで行われているマインドフルネス・メディテーション(要はヴィパッサナだ)に参加して瞑想。だから、長時間邪魔されず瞑想ができる環境に、ワタシャ飛びつきました、ってのが正しい表現かもしれない。なので、当たり前なことかもしれないけど、以前に10日間コースで体験したことを、この1日コースには求めてなかった。というか、かなり、軽いノリで参加したのが正直なところだ。

さて、1日コースだが、10:00 ~ 17:00の間に、アーナーパーナー瞑想、ヴィパッサナ瞑想、メッタ・バーバナ瞑想・ゴエンカ氏の講話が行われた。昼食時間も45分くらいあったので、かなりの駆け足だなぁ、というのが第一印象。

コース全体は例によって、ゴエンカ氏によるインストラクションのテープで進められた。懐かしい響きのチャンティングには、やはり心と体がブルブル震えたし、メッタ・バーバナではハートのチャクラが熱くなり涙が頬を伝わったりした。

参加者が「古い生徒さん」対象なので、ガサゴソモゾモゾする人も、変なオーラ出してる人も少なく、人の作る空気が清浄だったので、深く瞑想に入ると、自分ひとりきりでいるような錯覚すら覚えた。うん、その場の雰囲気がもうすでにピースフルだった気がする。

残念なことに貸しスペースの瞑想ホールは「クーラーの冷風アタック!」と「クーラーを止めて締め切った部屋にこもる9月残暑の湿気た暑さ」の繰り返しで、とても体に負担がかかった。せめて窓を開け放ち扇風機数台があると快適だったのになぁ、と思った。が、実はそんなに気になるほどでもなかった、ま、慾を申せば、ってことで。

久々の正式なヴィパッサナ瞑想で、ちょっとディープな洞察もあったり、意外な妄想迷走にハッ!としたりで、なかなか期待以上のシッティングだった。

フィリピン移住してからの色んな経験と、日本に帰国してからのコンクリートジャングル生活とで、どんどん薄汚れてきた私のココロの、ちょっとした大掃除ができたのではないかな、と。お陰で胸のあたりが、とっても軽いよ。

終了後してから、同じく参加していたヨガメイトとC先生と、石神井公園でのんびり過ごした。木々の匂い、土の匂い、湿気の匂い、思い思いに寛ぐ人々の、平凡な平和な満ち足りた空気。ああ、世界は美しいなあ。単純な私は、全てのモノへの愛が溢れ出しちゃって仕方なかった。

私がちょっとばかりの瞑想で、見つけた気になっている心の平静なんて、思い込みで作り上げてる部分が半分以上、今はまだまだ「ゆらぎ=Vritti」を見つめている段階だ。でも、それでいいのだー、とりあえずは、ゴー!だ。

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バンダとドリシュティ  

断食をして数日経ったころ、毎朝のアシュタンガの練習中に「あれ?」と思ったことがあった。

実は背景として、ここ1ヶ月くらい独学でクンダリーニの練習と、チャクラを意識した瞑想をし始めたのだけど、それと同じような感覚が身体の中で起きていることに気がついたのだ。特にそれはスーリャ・ナマスカーラ(=太陽礼拝)の時に強く感じられた。

そしてそれは、呼吸と共に動かす身体というよりは、呼吸と共に移動させるドリシュティ(=凝視ポイント)に影響されているようだった。特にNasagurai(=鼻先を見つめるドリシュティ)とBroomadhya(=第三の目を見つめるドリシュティ)の繰り返しによって、muladharaとajnaのチャクラが活性化し、その間をエネルギーが上下に循環している感覚があった。「鼻を見てムーラダーラ、眉間を見てアグニャ」って感じで。

もともと、スーリャ・ナマスカーラが異常に大好きで、AとBを5回ずつなんて物足りない!と思っていたが、なんでこんなに好きなんだろう?っていう疑問の答えが出た気がした。毎日毎日やってるスーリャ・ナマスカーラで、体内を流れるエネルギーのフローを体感しながら、実は思いっきりチャクラの活性化訓練をしていたということなんだ、きっと。

そんな折、いつも行ってるスタジオのレッドクラスで、簡単なバンダとドリシュティのWSが行われた。なぜか通訳係になってしまったので、ヘラヘラせずに、集中度150%で真面目に挑んだ。簡単に趣旨を要約すると、バンダとドリシュティを意識して練習することによって、表面的なジムナスティック・エクササイズから、本来のヨーガとしての瞑想的かつ、深く内側へ向かうプラクティスへ進んでいって下さいね、というのがメッセージだ。

バンダについては、ついつい忘れがちになってしまうムーラバンダとウディアナバンダを、実際にちゃんと感じ取る練習法。まずは体で覚えこまないと、アーサナの練習中に自然とロックできないから、これはとても有効なプラクティスだった。

でも、参加者の若い女性達の反応を見て聞いて、「あれ、意外とムーラバンダが判らない、って人多いんだ!」と気づいた。私は以前プールや海で水面に浮かぶときに自然とムーラバンダがエンゲージされてて、アシュタンガを始めてから「ああ、これか!」と膝をポーンと叩いた覚えがある。あと、これってあんまり誰も書かないので不思議だったんだけど、セックスの際に女性が意識的に「締める」部分、もしくはオルガスムスの際に自然と「締まる」部分がちょうどムーラバンダにあたるんだと、私は感じてます。男性はどうなんだろう?

ドリシュティについては、まず、ひとつのドリシュティ・ポイントから、次のドリシュティ・ポイントへの移行時に、視点を泳がせないことの重要性。私個人的には、ずーっとこれをやっていたので「はっ!」とした。確かに移行時に集中力が途切れる、というか、意識が外部へ向かっていくのは、視点が泳いで「あ、今日のドリシュティは隣のオニーサンの刺青!」とか「あ、あの人のウェアむっちゃかわいい、どこで買ったんだろー」とか、そんな雑念が1/5秒くらい脳裏を掠めているからだ。おお、これは、ちょいと改善の余地ありです。

そして同じくドリシュティについて、もうひとつはやはりチャクラポイントとの関連性だった。呼吸と共に正しくドリシュティをキープし練習をつむことで、アシュタンガの難易なアーサナの身体的・表面的練習を行いながら、身体内のエネルギー・ポイントを活性化させるというスピリチュアルな鍛錬をも、実は同時に行っているのだ、というお話。うーん、まさに、それって私が最近体感していたことではありませんか・・・。

いずれにせよ、バンダとドリシュティ、練習中はついつい疎かになりがちだけど、確かにこれがなかったらアシュタンガのアシュタンガたる理由がなくなっちゃう。それだけ大事なものなんですね、と、なにを今更って締めくくりで、では。

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ヨーガ・スートラ勉強会  

先日(とは言ってもかれこれ2週間前のこと)ゴビンダ・カイ先生のヨーガ・スートラ勉強会へ行った。

昨年末に初めて参加した際に、ゴビンダ先生が「今後定期的にヨーガ・スートラの勉強会を東京で行います」とおっしゃっていた。残念なことに私は1月よりずっとフィリピン在住だったため、参加はできなかったが、この間に8回くらい定期的に実施されたそうだ。

「ヨーガ・スートラ」なんて色々な本が出版されているのだから、一人で読めばいいじゃないか?と大抵の方は思うだろう。私だって実際に参加していなかったら、そう思っていたはずだ。では、なにゆえに、お金と時間を捻出して参加するのか?

それはきっと、単なる「読書」=アタマの知識に終わらず、パタンジャリのアフォリズム・各バースの指し示す意味を、言葉の奥に潜む深い深い深すぎる意図を、どれだけ私達が個人的体験として消化し学んでゆけるか、に重きをおいているのが、この勉強会の魅力だからだ。これもひとえにゴビンダ先生のヨガに対する真摯な姿勢と、それを共有しうるものへと変換してゆこうとする意思と愛があるからなんじゃないかと思う。

と、同時にサンスクリット語で詠誦することで、ヴァイブレーションを体の内から感じられるというのも素晴らしい体験だ。サンスクリット語は身体の各チャクラに共鳴するといわれている。そしてそれは、私そのもののエッセンスであり、愛、慈悲の心でもあり、静寂であり、ナーブ・トリガーでもあり、なによりも「概念」としてではなく「体験」するための、言語である(@ゴビンダ先生・・・これを初めてのWSで聞いたときには感動しました。)

でも私たちは結局、その時に準備ができていることしか、理解できない。ヨガっていうのは単なる「お稽古事」ではなく、「そこへ至る過程」つまり「Path=道程」であり、要は「生き方」そのものなんだ、という意味において、この真理はしごくあたりまえなことではあるのだが。ヨーガ・スートラもしかり、私が変われば、私にとってのその意味も変わってくる。

実はこの勉強会に参加したのは、私がドーンと精神的恐慌に陥り始めた時でもあった。現状の苦しさから逃げ出そうと、MINDが「ああしたほうが」「こうすべきだ」「本来こうあるべきだ」「それは体裁が悪い」「目には目を」「雪辱をはらせ」「負けるな」などなど、相当ネガティブでエゴ満載の企みを色々と吹き込んできて、とりあえずは外部に答えを見出そうともがき出していた。この勉強会の参加も、そういう「外部に答えを見出そう」っていう逃げの表れだったんだと思う。

では、なにかが見つかったのか?というと、 別になにも新しい発見などなく、「ああ、わたしは、まだまだ外部に答えを求めているなぁ」という認識をこれでもか、とさせていただいた。そしてまた、ヨガ修行を始めたばかりの自分の現在の位置づけの再確認みたいなものも。

>なにかを変えていかねば、と焦燥にかられるのは、「いま・ここ」にしっかり根をおろせていないからである。
>意識が外側へ向かっているときには、目に見えるものしか見えてこない。
>意識の向く方向ばかりを大袈裟にした挙句、それこそが「私にとっての現実」だと思い込み、結果「苦しみ」を発生させてしまう。
>「執着を捨てる」ことに執着するのではなく、そうである自分に気づくことが大事だ。
>真実・真我に貪欲であれ。OutwardからInwardへ。自分自身へ戻るのが、ほんとうの自身を見つけるのがヨガである。

これらは、各バースの直訳ではなく、それに伴ってゴビンダ先生がなされる様々な解釈やメッセージだ。ヨーガ・スートラそのものの勉強というよりは、いまの私に必要な言葉ばかりが、心の内がズシーンとしきむような衝撃とともに、胸に突き刺さってきた。

「ヨガは心の作用を滅することである」なんて誰でも言うことはできる。でも、形だけの、上辺だけの、シニファンのみだったら、それはなにものでもない。諳んじるだけで「理解した」と思うのなら、それは空しいよね。自分の奥底から湧き上がる真実として、このスートラを経験してゆくこと、一歩一歩歩んでゆくこと、それこそが、「いま私がここでやっていること」なんだなぁ、と、ひしひしと感じた。

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