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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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バイバイ・エルニド   

たまにゾクっとするような夕焼けに遭遇することがある。

たいていそれは一瞬の光景なので、わざわざカメラに収めようとかは思わない。

でも先日たまたま「片手にカメラ」だったので、パチリ。

エルニドに来てから「圧倒される自然の美しさ」に翻弄され続けてるんだけど、ココロ震える感動までは写真で表現できないシロウトだから、カメラに収めちゃうと、こんなちっぽけな、ありきたりの絵柄でしかないんだ、ってガッカリする。

でも個人的「記憶のトリガー」として、この写真は残しておこう。


elnido



ということで、昨日をもって2ヶ月過ごしたエルニドともバイバイ。

楽しかったなぁ、平和で最低限の文明しかない毎日だったけど。

ありあまる時間と余裕、開けた空間、大地と空と海の息吹や鼓動・・・他になにが必要なの?

って言うくらいの、これは精神的にはかなりの贅沢であって、

ヨガ馬鹿な私がヨガ的に表現すると、

「昨日」でもない「明日」でもない「いま」にしっかり存在するための修行みたいな日々、

ってことになる。




でも、留まってはおれない、

人生はフローだよ、

強制でも義務でもなく、

川が流れるように、

何かに導かれるように、

またこれから、移動の一路を歩むのだー、わはははは。



うーん、人生楽しいぞ、いや、マジで。
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できないアサナと、ひとりの練習  

お恥ずかしい話だが、これほど「ヨガ、ヨガ、ヨガー」と偉そうに言ってるわりにはワタクシ、アシュタンガ・ヨガのプライマリー・シリーズで、できないアサナというのが、実はかなり沢山ある。

体形的な理由もあれば、精神的ストレスでガチゴチに固まっちゃってる部位もあるし、はなからできない!とマインドが抑制している可動域の問題ってのもある。

パーシュヴォッタナーサナは、後手でのナマステがかなりキツく肘に激痛が走る
ジャーヌシルシャーサナCの右側は、足首がまったく曲がらないので絶望的にできない
マリーチアーサナDは一人ではできない、やる気にもならない
ブジャピダーサナは10回に1回くらいしか足が後ろに抜けない
スプタ・クルマーサナなんて絶対できない!ムリムリ・・・
ガルバ・ピンダサナは片腕しか足の間を通せない
よってクックターサナは不可能
バッダ・パドマーサナは両手で蓮華座の足をつかむことができない
チャクラーサナは「できない!」という思い込みがあまりに強くて練習すらしない始末。

既に8ヶ月もアシュタンガやっていて、これなんですー、わははは。

もし、私が未だに東京で練習してたら、周囲に気後れして、恥ずかしくて辞めてるかもしれない。ひとりマイペースで練習しているから長続きしてるのだと思う。

ボラカイに居た頃、Mo-Chin女史主催のヨガ・クラスに毎日のように参加しており、一緒になる顔ぶれはローカルのフィリピン人あとはアメリカ人・ドイツ人・韓国人といった国籍がマジョリティを占めていた(残りはヨーロピアン系)。

で、私思ったんですけどね、ことヨガに関しては「日本人の一般レベルってむちゃくちゃ高いよー!」と確信。それくらい他国籍の人々はテキトーで、特に西洋人はカラダ固いし肉付きが良くていらっしゃる方々多いし、で、アシュタンガのマイソールクラスですら、ジジババで和む区民館のヨガ教室みたいな雰囲気だった。

でも、それはそれで、私すごく好きだったなぁ、なにが良いって、「こうあるべき」強迫観念に惑わされず、誰もが自分のレベルで自分のペースで、自信をもって(これが肝心!!!)ヨガを実践しているってとこ。

端から見たら滑稽な姿態であっても、だから何よ?ってなもんで。そういう場では私も自然体で練習できて、ラクチンだった。

考えてみると、日本人は頑張り屋で努力家で生真面目で、それは私達が誇っていい国民性だけど、反対にマニュアルどおりに遂行せねば!という概念に囚われすぎ。

結果、自分が楽しむより、自分が「どうパフォーマンスしているか?どう見えているか?」に心を砕きがちになっている。

アサナをとる過程で起こるココロとカラダへの影響や効能よりも、パーフェクトなアサナが「できる」か「できない」か、が重要になってしまう・・・。

ああ、なんたるパラドクス!そういった囚われからの解放こそが、ヨガを実践する目的のひとつではなかったか?

だって、だって、パーフェクトにキレイなアサナを取ったところで、心が解放されてなければ、呼吸を楽しむ余裕がなければ、体内のエネルギーフローを体感していなければ、ある種のDharanaやDhyanaを経験していなければ、ヨガを実践する意味ないじゃん?

「アサナは目的じゃないよ、ツールなんだよ」とDavid Swenson大先生も、暖かく愛を持って言ってるし、本当にそうあるべきだと思う。

しかし残念ながら私自身、典型的な日本人気質ゆえ「あー、私できないアサナがいっぱいあって恥ずかしい」って気持がかなりある。情けないけど、アタマで判っていてもココロがついていかない、って例のひとつだ。

まだまだ私は精神的に未熟で、つまんない囚われや拘りで眼が曇ってる。だからきっと東京のヨガ・スタジオではココロ穏やかに集中できないと思う。「あー、あの人、あんなに上手!」「やーん、私こんなに下手くそ、情けなーい」ってね。

だからもしかしたら、現在のひとりマイペースで練習って状況は、周囲を気にする環境で行う練習よりもよいのかもしれない。

しょっちゅう「あー、東京にいればヨガスタジオもWSも選り取り緑なのにー!羨ましーい」ってボヤいてはいるけれど・・・。

そうだ、そうだ、今がそういう時であるのは、そうあるべき時だからなのだ、って、そういうことなのだと思う。

おお、深いぞ、ヨガ。

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瞑想  

毎日の瞑想に最近「新パターン」が出現。

まるで夢を見ているかのような

断片的なイメージ(ビジョン)が展開する。

万華鏡、コラージュ風、面白い、でもちょっと怖い。

覚醒したまま、無意識下の風景を眺めているみたいだ。

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バスの中で思ったこと  

palawan



「最後の秘境」パラワンのイナカ道(=砂利道)を、ガタピシのバスに揺られ、埃で身体中煤けながら、幾度かのエンジン故障で往生しつつ、トータル9時間の「エルニド-プエルト・プリンセサ」間移動が終了した。距離にして150km程度、日本だったら2-3時間ってトコロでしょうが、そこはいかんせんフィリピンですから・・・この設備にして、この人達であって、とりあえず「最終的に着けばOK」な訳です。

エアコンもないし、振動と騒音はかなりのデシベルだし、とても眠れる環境ではないし、本など読んだら「悪酔い」必須だし・・・結果、することもなく、ただボンヤリ開け放った窓の外を流れる光景を眺めて過ごした。ジャングル・村・山・村・海・村・川・村・・・・の繰り返し。

村ったって、殆んどがペラペラの木材で手作りされた掘っ立て小屋が2・3棟あるだけの集落。その生活は日本ではありえないレベルだが、簡単に「貧困」というキーワードで括っちゃいけない。これが都市部以外の生活スタンダードなのだし、彼らの生活は見た目よりもずっとずっと「清潔」だという事実はちゃんと認めた方がいい。合理化された西洋的生活の方が「清潔を保つ」努力を怠っている。週に数回しかシャワーを浴びない体臭プンプンの西洋人に「オー!衛生観念ナシ!不潔!貧しさゆえだ!」なんて言わせたくない。

ともあれ、点在する村の光景を見て発見したこと2点。
*どんなに小さな集落で店のひとつもなくても、教会(という名の掘っ立て小屋)は必ずある。
*私たちの視点から見ると「ベーシックで貧しい生活」であっても、とくに何をするわけでもなく大家族・ご近所さんがワイワイと集まり、笑顔で楽しそうにしている。

幸せであるのに必要なのは豊かな物資じゃないよね。だって、それはココロの問題だもんね。そういった意味で、精神的な貧困を抱えているのは、持たざる「彼等」ではなく、豊かな国から来た「私達」の方じゃん。あー、どんなに足掻こうと、彼等にはかなわない、完敗だ。そんなことをバスの中で思いながら、「羨ましいなぁ」と、涙が出た。

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