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三昧(サマディ)までは何哩(マイル)?

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life goes on  

4月の始まりに弟が急逝した。

東京のど真ん中で会社に属せず自らの信ずる道を歩み、しっかりものの奥さんに支えられ、小さな二人の娘を溺愛し、山アリ谷アリの人生の真っ只中、心身共に至って健康、むしろ若々しさが自慢の40代半ば。人というのは、こんなに急に、こんなにあっけなく、何の前触れもなく、ある日突然に、いなくなってしまうものなのか、と愕然。

早くに父を失い、3年前に母を看取り、事故で弟が逝き、家族全員がいなくなってしまった現在、絶望的な喪失感と、それでもここに生きる自分自身の奇跡、世界や宇宙や意識の不思議に翻弄されながらも、私がすべきことは「それでも闇から光の方向へ歩いていくこと」なんだろうな、と漠然と感じている。



時を同じくして、主人が20年住んでいた日本を離れアイルランドへと発った。

彼が50代の半ばを迎え、これからの人生の終焉をどのように生きるかを熟考した上での決断。それに異議はないけれど、人生の伴侶として共に生きる身としては、知らない外国での生活はあまり乗り気ではなかったのは確か。

正直なところ、現在の仕事を理由に日本に留まっちゃおうかな、と密かに企んでもいたのだけど、こうして弟の突然死を目の当たりにすると、私達はいつ何時何が起こるか判らないし、「また今度」とか、「機会があったら」なんて、二度と来ないんだという前提で“いま”を生きていかなちゃ、って痛感するしかなくて-だって、それが人生における最大の真実ですから- 結果として、やはりちゃんと主人について行こうと、素直にそう思うようになった。



一方で、私個人的な問題が2点浮上してきた。

ひとつは、なんと、この私が心身症とやらになってしまった。しかもその要因が「仕事環境」という、20年も外資企業の過酷な環境でガッツガツ働いてきた身としては、情けないやら、申し訳ないやら、理性やロジックの部分では到底受け入れがたい現実にガツーンである。

もうひとつは、昨年末あたりからジワジワと肩の調子が悪くなり、スポーツ整形外科で診断を受け、理学療法と東洋療法のリハビリを続けてきたのだけど一向に改善されず。普通50代中年女性なら、痛みのコントロールをしつつ身体に負担をかけない生活を送れればOKとされるけど、私個人的見解が「ゴメン、あと10年はヨガやりたいんですよねー、しかもガッツリと」とアスリート魂全開なため(だからスポーツ整形外科なの)、手術という選択肢も視野に入れ始めている最中。



ところで、このブログはヨガブログであった。

1月からお休みしているアシュタンガの練習は、肩を安静にさせることが第一の理由だったのだけど、4か月休んでも悪化する一方ならば、痛まないやり方を模索しながら練習復帰してもいいんじゃない?と、ふと思い、ちょうどGW中のお休みを利用してリハビリ練習を再開してみた。

身体は思うようには動かないけれど、1/4プライマリーをじんわりやるだけで、バンダちゃんがみるみる活性化していくのが実感できて、面白かった。ポーズを獲得する練習というよりは、バンダちゃん養成練習みたいなかんじで、しばらくゆるゆると続けてみることにする。


ま、全てこの世はこともなし Life goes on anyway.

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私がアシュタンガヨガ界から一定の距離をおく理由  

アシュタンガヨガは伝統的なヨガであり、その創始者パタビ・ジョイスからの教えをパランパラ(師から徒へ)に則り学ぶことができるのは、唯一インドのマイソールにあるKPJAYIだけである。つまり、このKPJAYIで正式に資格を与えられた指導者のみが、伝統的に正しいアシュタンガヨガを教えることができるということであり、KPJAYIの正式指導資格を持たない者からアシュタンガヨガを学ぶべきではない。ましてやTTCなんぞもってのほかだ。



といった趣旨のポストが某サーティファイドティーチャーのFBにアップされており、なぜヨガを伝える身でありながら、そんな了見の狭いジャッジメンタルことを平気で公表できるんだろう・・・と首をかしげていたら、なんととても多くの人々が「素晴らしい!」「よくぞ言ってくれた」「真実を伝える勇気を尊敬する」「シェアします!」等々、ベタ褒め状態なのに唖然とした。

アシュタンガヨガ界のコアな面々は、「我々」と「我々以外」の線引きを強調することで、「我々」の選民意識を増長させる傾向にあるけれど、それって、つまり、カルトの特徴なんじゃないかな。

KPJAYIに数回通うだけで発行される認定証という紙切れを持つコト=正式な指導者、なんて、みんな本気で信じているんだろうか?

つまり、ヨガを始めて3~4年でマイソールへ何回か通ってKPJAYIのお免状を取得した、いわゆるアシュタンガヨガ界でいう「正式指導者」と、普通に社会の中での役割を全うしながら20年30年とコツコツとヨガの実践を継続しているヨギーと、どちらからヨガを学びたいか、ってコトなんだけど、どうやらアシュタンガヨガ界では、前者を支持するコト=イコール・忠誠心の証らしい。

私個人的には、ヨガを学ぶということは、人生をどのように生きて、社会と人々とどのように関係性を持つか、ってことなんじゃないかと思うし、理不尽な環境の中でも、問題や対立する物事から逃げずに、好戦的にならずに、どのように双方の調和を保つか、そのためにどのように働きかけるか、を日々実践することが大切だと思っているので、KPJAYIの資格がどうとか、あんまり関係ない。

そして、なによりも、ヨガを伝える者のすべきことは、「○○○や△△△を具体的に手とり足とり教えてあげる」ということではなく、ヨガというツールを使って、生徒さん自身がヨガの学びを実際に体験していく環境つくりに徹することなのではないかな。

だいたいさ、私がヨガを教える、なんて、おこがましいでしょ。

ヨガはいつもそこにあって、ヨガは常に私達に働きかけてくれて、ヨガというシステム自体が先生なワケだからさ、それを「紹介する」PR担当者みたいなもんなんですよ、ヨガの指導者なんて。

そこにビジネスとか、カルト的傾向とか、個々のエゴとかが絡んでくると、途端に胡散臭くならざるを得なくなって。

だから、ブランドネームが必要になってくるのね、アシュタンガとか。
だから、ブランディング戦略が必要に会ってくるのね、伝統的とか。

冷静に見れば、アシュタンガヨガって、パタンジャリのヨーガスートラでしょ?エーカムインヘールのことじゃないよね?
冷静に見れば、伝統的って言葉は、たかだか半世紀程度の期間をたった2世代で受け継いできたコトには使わないよね。日本の伝統的な歌舞伎や能は何代続いてるか知ってる?

そのカラクリをわかった上であえてゲームを演じるのか、ただひたすら盲目的に全てを信じるのか、どちらもアリだけど、ただ私個人的には狂信的なカルトからは身を引いていたいな、というのか正直なところ。

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春の気配  

アシュタンガヨガの、これまで続けていたインテンスな練習から離れるのは、そんなに大したことじゃなかった。

特にこれといって喪失感もなく、むしろ日々の生活の中で自分自身のゆとりが生まれてきたくらいで。

アシュタンガはリタイアしたけど、朝ヨガの習慣は残ってる。

朝5時半ごろ起きて用を足したら、暗い居間にマットをビャッと敷く。電気もつけず、寝起きのヨレヨレのまんま、両手も合わせず即!太陽礼拝。

バリバリのガチガチの全身を、ヨロヨロと動かす。伸びない身体に対して、重たい身体に対して、特に不満に思うでもなく、這いつくばって「この肉体が許してくれること」だけをただ粛々と。

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朝の起き抜けは余計な邪念がないから、気楽にできる。

お家での練習は、なーんにも取り繕わない素の自分が、卑屈からも驕りからも自由でいられる。

スタンディングを中心に座位の前屈や後屈を適度に加え、陰ヨガも取り入れて正味45-60分くらいの「自分を整えるヨガ」いっちょうできあがり。

満員電車に揺られて、一日の大半を過ごすストレスフルな仕事場へ向かう前の、こんなちょっとした大切な時間が、現在の私のプラクティスだ。

「あれこれしょーもないことの連続」でできている私達の日常。いつもの毎日を平坦な戦場にするのも、愉快な遊び場にするのも、自分次第。

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ヨガのいらない人生  

年明けとともに、また新しい職場で新たな業務が始まり、なんだかんだいって自分はサラリーマンであることにある種の居心地の良さを感じているのだな、と苦笑しながら、相も変わらず横須賀線に乗って長距離通勤をしております。

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前回の勤務先から業界を路線変更したのだけど、その延長線上で以前から興味のあった部署での仕事が紹介され「おお、そう来るのか!」と、膝をポーンと打ったり。

ダンナさんとのイギリス行きも、健康上の理由でちょっとだけ延長になって、物事はホント面白い展開をしてゆくのだなぁ、と感服しきり。

自分の意志や意図ではどうしようもない事柄が、歳をとるにつれどんどん増えてゆくけれど、いまよりもっと自由だった若かりしときよりも、現在の方がずっと楽チンに生きてるような気がします。

時間も、お金も、環境も、身体も、関係性も、なにひとつ思うようにはならないけれど、「それらを自分の不幸の理由づけにする必要はないよね」っていうか、「だって大切なのはそんな些細なことじゃないじゃん」と、本能レベルで腑に落ちてるのかな。

昨年末から頸椎ヘルニアの症状が強くなってきたため、アシュタンガヨガのフルプラクティスは、まるっとお休みしているけれど、特に不満もなく、どちらかというと満ち足りた気持ちで、日々を過ごしています。

毎朝のヨガアサナの練習が必要じゃないくらい幸せ度合いが高い理由のひとつに、ビーガンとかベジタリアンとかの偏食を止めた・・・というのもある。栄養素が充分ゆきわたっていればニンゲン結構ハッピーでいられるものなんだ、と痛感。



あ、いまの私って、ヨガがいらいない人生なんだ

No Yoga No Life なんてことは、決してなくて

Life is Yoga なんて、あえて声高に言う必要もナシ



むしろ、ここで、アシュタンガヨガのアサナを追っかけるような練習は終わりにする時なのかなと、静かにそんなことを思っていたりもします。

もちろん、まるっとヨガやアシュタンガを止めるワケではなくて、やり方というか姿勢を変えて、これから老年期を迎える自分自身が、より豊かに幸せに生きていく上でのサポートとなるような位置づけであれば充分じゃない?


いまのこの気持ちも、明日目が覚めたら、また変わるのかもしれないけれど。

それはそれで、またワクワクと楽しめば、よいのかな、と。

ま、そんなとこ。

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おおそうじ  

12月の後半は有給消化でのんびり過ごし、久々に「おしりを気にしなくてよい」練習を再開。

身体全体に染み渡るように、やわらかなエネルギーを一呼吸ごとに充電していくような、自己ヒーリングっぽい感覚のプラクティス。心のありようで身体の状態なんて(ましてやアシュタンガヨガの練習なんて)ガラリと様変わりするものだとは判っていても、ここまで自分自身の中に、暖かでやわらかいパワーが源泉のように湧き上がってくるのを感じるのは、ちょっとした驚きでもあった。

あれだけシンドくて辛くて肉体的限界マックスで心が折れまくっていた、あのポーズやこの動きetc それらに対してとっても冷静に静謐に対峙する余裕が生まれていた。すごいなぁ、人間のパワーって。

アシュタンガヨガだけに限らず、ひとつの世界にどっぷりはまっていると、視野は当然狭くなる。その世界だけで通用する価値観に疑問を持たなくなり、“ワタシタチ“という内々での共通言語に寄り掛かった物事の捉え方に支配されていく。私自身がそうだったし、そういう人達を沢山目撃してきたけれど、いまの私にとってそれは要らないんだ、と、久々の開放感あふれるプラクティスの中、そんなことを感じていた。

「私の身体は固い」と、そう信じている沢山のアシュタンギ。エゴの指令で心と身体をコントロールしすぎて、ニンゲン本来の自然な柔らかさやパワーを失ってしまった、ギクシャクとした身体と動き。まぎれもなく、それは私であったし、私を取りかこむ小さな世界での“アタリマエ“みたいなもので。だけど、いまの自分が行っている「アシュタンガヨガのシーケンス」の練習の只中で、その固さがユルユルと解けていく体験を目の当たりにして、なんかちょっと気が抜けちゃった。

人間ってスゴイよなぁ、からだ全体がそのまんまで、まるっと自然そのもので、パワーと柔らかさに満ち満ちている。赦せばいくらでもやわらかくなるし、委ねればものすごいパワーを生み出す。

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なんてことをね、ぼんやり感じながら、ゆったりと毎日2時間ちかく練習する、至福の時を味わわせていただいた年末の2週間。こころとからだのおおそうじをして、風通しが随分と良くなったような、そんな気がしております。

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