さざなみ

2009年11月02日 21:50

毎日のスタジオ練習にちょっと慣れてきた。


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アジャストはサクっと余計なものがなく、だけど機械的というのではなく、きちんと変化を見て察して調整しているのがよくわかる。

あれ、ずいぶんとソフトなアジャストなんだな、と思ったのは最初うちだけで、気がつくと深まるポーズはかなりにディープに、だけど皮膚に痣がつくようなガッツシ系ではなく、あくまで優しく。

これまでアジャストを受けることのなかったLBH系アサナ、特にドヴェィパダ・シルシアーサナで、毎回毎回、ソフトかつ日に日にディープにアジャスト受けてたら、いつのまにか上半身が猫背じゃなくなったりとか、新鮮な発見も。

今朝は身体の前面が気持ちよく伸びて、めずらしく後屈シリーズがさほど辛くなかった。カポタやドロップバックなどの超苦手系では、「ぶら下がってる」状態をちょっと長めにキープして、本当は潔くサクットポーズに入るべきなんだろうけど、みぞおちあたりをウンとストレッチしてから着地するのがついつい癖に。

マユラーサナはダメダメもいいとこ。できる気がしないポーズというのは、やっぱり留まりやすい。ラグバジュラに次ぐ、「どこにポイントおいたらいいのか、ふんばりどころが皆目検討つきません」系ドツボポーズだ。ここ1ヶ月の間に3人の男性指導者から教わったが、それぞれ異なるアプローチで、なんか面白かった。

ハンドスタンドは、なんでこんなにできないんだろう?というくらい、バランスがキープできない。バランスポイントにスポンと入っても、そこに留まれないもどかしさ。目線が思っていたよりずっとずっと前方だ、と最近気づいたけど、まだ、なにかが見つかってない。

それにしても、先日のコメント欄にも書いたが、信頼できる先生の下で、安心できる環境で、練習ができるというのは奇跡のように有難いものだと、しみじみ感じる。今朝も練習が終わってマットの上でありがとうございました、と両手を合わせたら、本当に心の奥底からジーンと感謝の気持ちが沸いてきて、またしてもホロリ。なんか、このスタジオでは泣いてばかりだな。でも、洗われるような気持ちのよい涙なので、よしとする。


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明日はムーンディ、父の13回忌、母の誕生日。



練習再開

2009年10月30日 15:24

安曇野から戻って、スタジオ練習を再開した。

毎日同じ時間に、同じ場所で、同じ動きの練習をする。繰り返し繰り返し幾重もの年輪を刻むように繰り返す、その単純な、シンプルな行為。余計なものをどんどん省いて、最低限必要なものだけ残して。だからこそ見えてくる変化と広がり。この世の最後の一呼吸の中に、一番大切なものがあるのかな、とか思いつつ、呼吸に深く深く潜り込んでいく。



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1週間のあいだ毎日変わらぬ同じ練習をしたのは久しぶりのこと。

今日はここ、明日はあすこ・・・と毎回違う環境で行う練習は、心が忙しくなる。刺激的ではあるが、不必要に神経を尖らしてしまう。「今日はこの指導者だから、ここをこうしなきゃ」とか、「今日は自宅だからここをこうしちゃおう」とか、いらないもので自分が膨れ上がってくる。結局毎日違ったメニューで、身体も心もその都度びっくりして、川面のさざ波は立ちっぱなし。



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だけど、人々の中にいると、なんでこんなに練習に集中できるのだろう?

自宅では保てない規律のなせる業なのか、いわゆる「いいプラナもらっちゃたわー」なのか。たぶん、どっちも。満員電車の中でますます冴え渡る集中状態に似ているような、大自然の中でひとりぽつんといるよりも、ずっと孤立感がある感じで。共同体の中での、守られた場所での、安心感。私達は避難場所へ駆け込む難民のように、毎朝都会のスタジオへ足を運んでいるのだろうか?



into the sky




こないだ、あるひとつのものを手放してみた

自分の愛着が執着にしか見えなくなったとき、思い切ってサヨナラしてみた。ごめんなさいの気持ちと、残念な気持ちと、沢山の後悔に押しつぶされそうになった。だけど、ぎゅっと握り締めたこの手を開いて、掌を空けておかないと、新しいものはやってこない。流れを滞らせず、風通しよく、来るものを、去るものを、潔く通過させてみる。心が軽くなる、身体も軽くなる。



I see Things You Dont See




そういえばサマスティティヒ

ポーズが終わってサマスティティヒに戻るときに、いつも胸の前で両手を合掌していた。ちょっぴり厳かに拝むような気持ちで目を閉じて。だけど本来は、両手を体側に降ろした「気をつけ!」の姿勢なんだと、こないだ初めて知った。拝まず、目を閉じず。ますぐ正面を見て、ピシッと「気をつけ」、で、サマスティティヒ。なにもかもを一旦チャラにして、リセットして。ここからもういっかい、新しい自分で、ピカピカに生まれ変わった自分で、サマスティティヒ。





安曇野でヨガ

2009年10月26日 14:51

友人がオーガナイズするバリー先生のワークショップへ通訳として参加。


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安曇野というシャンティな土地、地方でコツコツと宅練に励む人々、不思議な魅力のバリー先生、チーム逗子メンバーの飛び入り参加、前からやりたかったヨガ通訳、「新そばが美味しい季節だよ〜」の一言、心の盟友K子オーガナイザー・・・これだけインスパイヤされる要因が揃ったら、行かないわけにはいかないでしょう(笑)の3日間。

主催者さん先生と何人かの生徒さんとで、山の中のコテージに泊まり、気分はもう修学旅行。一晩中ワイワイとお喋りは尽きず、毎日ゲラゲラと笑いは止まず。お蕎麦は美味しいし、温泉は気持ちよい。だけど、そんな中にこそ心の奥底に触れるアレコレが沢山あるもので、ワークショップや練習を離れたところでも、沢山の元気玉をもらった気分。

永年習ってた先生が去ったショックで練習場を自ら失うようなことして、ワケわかんないものに屈服した練習をしたり、自宅ではまるきり規律を欠いたダラダラの怠け者に成り下がり、ついでに仕事は全然見つからず、私は一体なにやってるんだ?と、モワモワ悶々とした日々を送ること数ヶ月、なんだかそれに一区切りがついた感じ。

3日間のワークショップを通して、バリー先生を、参加者の方々を、ただただずっと見てた。すべては流れるように変化していくのだなぁ、と印象深かった。直接は触れず、深くは関わらず、個人的なものを持ち込まず、淡々と傍観者のようにそこにいて、通訳という言葉の媒介を勤めた。見るものが、見られるものと混同しないように、すべてのハプニングを私自身と混同しないように。

バリー先生が発する言葉を介して、彼の言霊を、彼の慈愛を、彼の情熱を、彼の師を、ヨガの真髄を、私という媒介者を通して、言葉という乗り物を使って、この地で黙々と自己練習に励む人々へ届ける、橋渡しをする。その行為は幾重ものフィルターがかかり、霞んだり誇張されたり、だけど本当の大事な部分、本質のシンプルさは、そこにいつまでも残る。

どれだけの言葉を尽くしても言い表せない、だけど瞳で心で感触で直感で通じ合うるなにか、それこそが、私達の奥底でひっそりと眠る真珠貝のような真実で、「あなたにとってのヨガは?」の答えは、きっとそこにあるんだろう。


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通訳メモ:


アサナはヨガのほんの一部
マットの上で練習するのは1日のほんの一部
だけどそれだけに終わらせるのではなく
アサナを離れた部分へ
マットを離れた部分へ
私達の日々の生活へ、人生へ
あなたのヨガを広げていけたらなら
それはとても素晴らしいこと

怪我や病気でアサナの練習ができないからと
ヨガそもののすべてを止めてしまうのは極端すぎませんか?
行為のヨガもあります、献身のヨガもあります、知識のヨガもあります
チャンティングすることも、瞑想することも、プラナヤマもヨガの一部です



けれど私達はアサナという最も身近なツールを使い
マットの上で練習を続けています
これが私達のプラクティスです



至高の存在や無限を集中の対象とするには広大すぎるから
インドの人々は様々な神々の形にそれを具現化し
瞑想や崇拝の対象としてきました。

私達もヨガという広大なシステムのごく一部の
アサナというツールを使って
呼吸とドリスティに心を集中させ
肉体と精神と魂の浄化を日々行っています




ポーズという身体の外側で起こっていること
それは他者の目にも明らかです

ポーズをとる身体の内側で起こっていること
それは他者の目には見えない部分です

あなたがヨガ=アサナと捉えるのか
それともヨガ=スピリチュアルな成長と捉えるのか
それによって大切なものは何なのかが変わるかも知れません



他者の目の介入しない自宅での練習
宅練の大変さ、しんどさ、ダメダメな自分を目の当たりにする現実
マットにすら立てない日々、立てたとしても気が散るばかり
集中もできなきゃ、ポーズも深まらない、嘆息、焦心

だけどそれを乗り越えようと檄を飛ばすより
むしろ、それを受け入れる勇気を持つ
しかし決して諦めたり逃げたりせずに

どんな状況であっても
それがプラクティスなんだと



八支則は八つの枝と捉えることもあるし
八つの梯子階梯と捉えることもある。
ハつのステップを一歩ずつ確実に登っていくのか
八つの方向へ同時に枝を伸ばし広げていくのか
どちらもあり、どちらもありうる



ゴールオリエンテッド、すなわち目標達成に囚われすぎて
そこへ至るプロセスそのものを楽しめなかったら
それはヨガの意義を履き違えてしまっている

しかしそれがアサナの完成形であれば
安易にモディフィケーションポーズに留まらず
伝統的な完成形を「目指す」姿勢は重要
それが「できる・できない」は問題じゃなく
そこへ向かっていくこと自体がプラクティス



それこそがすべてであり
それはほんの一部でしかない



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地元の宅練アシュタンギの方々の姿は、やさしく穏やかで、内面から現る美しさがある。アサナという表面上の進化は確かにゆっくりだろう、しかしその内側は成熟し、とてもバランスがとれている。

「冬の間の練習は辛いんですよ〜」
と笑いながら語る彼等彼女等の瞳は、どっしりと落ち着いた柔らかさがある。

「それでもね・・・」と彼等彼女等は続ける。

「そんな風に寒くて、身体は硬くて伸びなくて、冬眠したように停滞した練習を、それでもコツコツと続けていると、春が来たときにね、芽が出てくるのが判るんですよ」

うわ、たまらないなぁ、これ。
私は自分が恥ずかしいや。

こんなに恵まれた環境にいながら、ダダッコのようにブーブー文句たれて、自分の練習ひとつままならないなんて、なにやってんだ私?・・・超反省、でも目が覚めた。



たったの3日間だったけれど、いい意味で、良いタイミングでリセット。温泉にいっぱい浸かったからかもしれないけど、ワーワーいっぱいおしゃべりしたからかもしれないけど、悶々とした胸のつかえが抜けていったみたい。

主催のK子さん、お疲れさま、こんな機会を作ってくれてありがとう。バリー先生、なんだか色々と見えてきました、ありがとう。安曇野のアシュタンギのみなさん、沢山学ばせていただきました、ありがとう。これからも練習、続けていきましょう。



Olafur Arnalds "Ljosio"

2009年10月17日 12:25



自宅でフルプライマリー

2009年10月16日 13:55



週に1度のプライマリーの日。いつもは九段下のスタジオで練習するのだが、今朝は所用により自宅にて。

自宅だとダレちゃって、集中力を持続するのが目下の課題!な、はずなのに、今朝のフルプライマリーは意外とサクサクと、ちっとも途切れることなく、気持ちよく練習ができてビックリ。あれれ?これなら問題ないじゃん?

そういえば自宅で練習を始めたのは、既にスプリットしてセカンドだけを単独で行うようになってから。慣れないセカンド、むづかしいセカンド、できないセカンド、嫌いなセカンド、ちっとも楽しくないセカンド・・・それを規律を欠いた環境で練習しようとしても、そりゃ無理がある。プライマリーで身体をウォームアップしてからやるわけではないので、まだまだ硬い身体でガツンとセカンドへ挑戦していくには、ある程度の気合も必要だし。当然全然できないから少しでも向上しなきゃー、と焦る気持ちで更にガジガになる悪循環。これじゃぁ、へこたれても仕方ないのかな?

なんだかんだいってもプライマリーは、かれこれ4年以上毎日、それこそ1000回以上は練習してきている。できないことがイッパイあっても、プライマリーシリーズは身体に沁み込んでいる。だから、別に環境に惑わされることなく、スタジオだろうと自宅だろうと、それなりに「わたしのプライマリー」が行えるのかもしれない。別段何かを考えることもなく、流れるように、ただ身体を動かしていくことができる。うーん、自宅での練習はプライマリーオンリーにしていきたいかも^^

そんで、ふと思った。
つまりは、自分が何を必要としているか、なのかな、って。


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太陽礼拝をやっていくうちに、今日の私は何が必要?なのかが見えてくる。気持ちよく瞑想的に練習をしたかったらプライマリー。ちょっとチャレンジングな気分だったらセカンドだけ。単に座りたいだけなら瞑想して、エネルギー整えるのにプラナヤマ加えてみたり。バックベンドにフォーカスしたかったら、まったく別のシーケンスを練習したり。反対に両極のバランスを取るように、怠惰でタマシックな自分を発見したら陰ヨガなどで甘やかさずに、あえてセカンドでガツンと。ハイパーテンションで落ち着きのない状態だったら、それこそ前屈シリーズと陰ヨガで自分を中庸へもってくる。自宅の間マットの上で私は自由、だからこそ責任をもつ。ヨガは自分を知るツールであっていいはず。自分を誤魔化すツールに成り果てたら、本末転倒だ。

「エーン、これじゃぁ、アシュタンガの練習にならないよー」と愚痴るのはお門違いもいいところ。自宅で”アシュタンガヨガの決められた練習方法”ができないのなら、なぜできないのかを探求するよいチャンス。そして、”アシュタンガの決められた練習方法”をやりたい気持ちはどこからやってくるのか、できない自分はなにに起因するのか、そもそもやらなきゃならない理由は自分の内から沸き起こるのか、それとも外部からの条件付けでしかないのか、そしてそれをジャッジする私は一体なにものなのか?を知る、ということだよベイビー。




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